電気事業に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:46 UTC 版)
民義が愛知石炭商会を開業した1889年、名古屋市において名古屋電灯という電気事業者が開業した。旧尾張藩出身の士族三浦恵民が代表を務め、資本金7万円余り、発電所出力100キロワットで事業を始めた同社は、競合会社を合併するなど順次規模を拡大。1907年(明治40年)に東海電気(旧・三河電力)の合併と増資を行って資本金を525万円とし、さらに1910年(明治43年)には岐阜県にて長良川を開発し出力4,200キロワットの長良川発電所を建設した。 名古屋電灯が規模を拡大しつつあったころ、福澤桃介は北海道炭礦鉄道を辞職し、株式相場にて得た資金を電気事業や紡績業など各種企業に投資していた。新事業を探る福澤は1907年、ヨーロッパにおいて水力発電所からの長距離送電が成功したことを知り、友人となっていた民義に手紙を出して名古屋周辺で水力発電に有利な地点を探査してほしいと依頼する。これに対して民義は、増資に際して引き受け先がなく宙に浮いていた名古屋電灯の株式5,000株を買収するよう提案したが、福澤は応じなかった。しかし結局、先に同社の経営を検査していた三井銀行名古屋支店長の矢田績から勧誘されると福澤は名古屋電灯への投資を決め、1909年(明治42年)3月より株式を買収し始めて1年余りで1万株を持つ筆頭株主に躍り出る。株式買収とともに経営にも関与し、顧問となったのを皮切りに相談役、取締役と昇進して1910年(明治43年)5月には常務取締役に選出されるに至った。 福澤は一時期常務を辞任して経営から退くが、経営刷新を求める声に推されて1913年(大正2年)1月常務に復帰する。この直前の1912年(大正元年)12月、名古屋電灯の定時株主総会にて取締役全員辞任の上改選することとなり、役員指名を一任された福澤は新取締役7名を指名。このとき下出民義も新取締役に選出された。民義にとってこれが表立って電気事業に関係した最初の出来事であった。名古屋電灯では、常務に選出されてはいなかったものの、福澤の不在中には代行して社務を見るのが通例となった。
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