電気事業からの撤退
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復配を達成した1935年上期に総収入が初めて500万円を超えて以降も、軌道事業・電気事業ともに増加傾向を維持しており、1938年下期には総収入が856万円となって1930年代前半の2倍近い水準に達した。この時期、総収入に占める割合は電気事業収入が7割、軌道事業が2割前後と電気事業が過半を占め、さらにその電気事業収入は電力料収入が3分の2近くを占めていた。 日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)3月、電力国家管理の方針を規定した「電力管理法」とその関連法が成立した。これにより電気事業者は主要な電力設備を新設の国策会社日本発送電へと現物出資することとなり、九州電気軌道でも大門・小倉両発電所と大門・日明両変電所、送電線10路線を日本発送電設立の際に同社へと出資するよう逓信省から命令された。出資資産の評価額は2,007万4,406円で、日本発送電株式の割り当ては額面50円全額払込済株式35万2,622株(出資者33事業者中第8位)。日本発送電は1939年(昭和14年)4月1日に発足し、以後九州電気軌道は必要な電力を自社で発電するのではなく同社から購入する体制となった。 日本発送電への出資に続いて1939年8月、電気事業への介入を強める逓信省より、残された配電事業を九州水力電気へと譲渡するよう示達を受けた。九州電気軌道の主要事業が九州水力電気へと転移するという大がかりな再編ではあるが、会社間の交渉は円滑に進み、同年10月に協定が成立した。この協定によると、九州電気軌道の資産(1939年5月末時点で7,122万円)を2等分し、軌道設備や関係会社への投資を含む一半を九州電気軌道に残し、配電事業設備を含むもう一半を九州水力電気が引き取る、さらに負債も折半し両社で引き受ける、という形で事業の譲渡が行われることとなった。 九州水力電気への配電事業譲渡は1940年(昭和15年)1月31日付で実施され、九州電気軌道は収入の7割以上を占めた電気事業をすべて失った。九州水力電気からは譲渡代金の一部として九州電気軌道の株式52万株が提供されたことから、これを減資に充当し、同年2月1日付で資本金を5,600万円から3,000万円(払込資本金は4,400万円から2,400万円へ)としている。また減資を機に九州水力電気の傘下を離れて資本的に独立した企業となった。 九州電気軌道の配電事業を統合した九州水力電気はその後、1942年(昭和17年)4月になって配電統制令に基づき九州地方の配電をつかさどる九州配電(九州電力の前身)へと統合された。
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