相次ぐ合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:23 UTC 版)
木曽電気製鉄設立後、1920年(大正9年)から翌1921年8月までの短期間に名古屋電灯は6社の事業者、すなわち一宮電気・岐阜電気・豊橋電気・板取川電気・尾北電気・美濃電化肥料を相次いで合併した。名古屋電灯では合併に先立つ1919年10月に1700万円の増資を決議しており、これも加えて一連の合併後の資本金は4848万7250円に拡大している。 一宮電気株式会社 1912年2月、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市)に設立。開業は1913年1月で、一宮町とその周辺や丹羽郡古知野町・布袋町(現・江南市)などへ供給した。発電所を持たず、名古屋電灯から受電し配電に充てていた。資本金は50万円。 1919年12月20日株主総会で合併決議、翌1920年4月24日合併成立。合併に伴う資本金増加は75万円。 岐阜電気株式会社 前身の岐阜電灯は1894年7月開業。1907年に新会社の岐阜電気へと改組した。供給区域は岐阜県のうち岐阜市・大垣市などで、揖斐川支流の粕川に自社の水力発電所を所有していたが、供給力不足のため1918年より名古屋電灯から受電していた。合併時の資本金は600万円(払込375万円)。 1920年10月25日合併決議、翌1921年1月23日合併成立。合併に伴う資本金増加は825万円。 豊橋電気株式会社 豊橋電灯の名で1894年2月設立、同年4月開業。供給区域は豊橋市や豊川町(現・豊川市)、それに静岡県浜名郡西部(現・湖西市)などで、名古屋電灯とは電力需給関係はなかったが福澤桃介が社長を兼ねていた。合併時の資本金は240万円(払込173万円)。 1920年12月20日合併決議、翌1921年4月20日合併成立。合併に伴う資本金増加は378万円。 板取川電気株式会社 1909年7月設立、翌1910年12月開業。供給区域は岐阜県のうち武儀郡美濃町(現・美濃市)・関町(現・関市)などで、電源は自社の水力発電所であった。合併時の資本金は100万円(払込75万円)。 尾北電気・美濃電化肥料とあわせて1921年3月25日合併決議、同年8月21日合併成立。3社合併に伴う資本金増加は270万7250円。 尾北電気株式会社 1918年3月に犬山電灯と可児川電気が合併し設立。供給区域は愛知県丹羽郡犬山町(現・犬山市)や岐阜県可児郡の町村(現・可児市・御嵩町)で、自社の水力発電所や板取川電気・名古屋電灯からの受電を電源とした。合併時の資本金は100万円(払込40万円)で、株式の4割を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)。 美濃電化肥料株式会社 1918年6月「美濃電化」の社名で設立(社名変更は1920年4月)。美濃町に本社を置き、板取川に白谷発電所を建設して炭化カルシウム(カーバイド)を製造するとともに板取川電気へ電力を供給した。合併時の資本金は300万円(払込100万円)で、全6万株のうちの1万7000株を板取川電気が所有していた(合併に伴い同社保有分は消却)。 一連の合併によって愛知・岐阜両県にあった1万戸超の電灯需要家を抱える事業者(1919年時点)のうち一宮電気・岐阜電気・豊橋電気の3社は名古屋電灯に合併されたが、愛知県岡崎市の岡崎電灯と鉄道兼営の愛知電気鉄道(現・名古屋鉄道)の2社は名古屋電灯に合併されず残った。岡崎電灯については、1921年3月の総会で福澤が説明するところによると同社の重役中には「悲壮の精神」をもって他社との合併を拒む者もあり、当面の合併は不可能であった。一方の愛知電気鉄道については、1919年12月に決議された増資において名古屋電灯が2万株を引き受けており、すでに筆頭株主となっていた。 豊橋電気・板取川電気などとの合併がまだ手続き中の段階にあった1921年3月31日、名古屋電灯は関西水力電気との間に合併仮契約を締結した。この合併はこれまでのものとは異なり名古屋電灯を被合併会社、相手側(関西水力電気)を存続会社とするものであり、合併に伴って名古屋電灯は解散することとなった。 関西水力電気株式会社 1905年11月29日、奈良県奈良市に設立。先に開業していた奈良電灯から事業を引き継ぎ奈良市に供給したほか、山辺郡丹波市町(現・天理市)、高市郡八木町(現・橿原市)、北葛城郡高田町(現・大和高田市)などにも供給区域を広げた。合併時の資本金は450万円。 名古屋電灯との合併条件は、合併に伴って6464万9650円の増資を行い(合併後の資本金は6914万9650円)、それに伴う新株129万2993株を解散する名古屋電灯の株主に対し持株3株につき4株の割合で交付する、というものであった。 名古屋電灯側が解散するという関西水力電気との合併条件について経営陣は理由を詳しく説明しなかったというが、地元紙『新愛知』では関西水力電気側には勢力の大きい会社を合併することによる株価の高騰、名古屋電灯側には持株数の増加や合併慰労金などの交付があって双方の株主に利益となるためであろうという推測を載せている。契約締結後、1921年4月28日名古屋電灯の株主総会にて、翌29日関西水力電気の株主総会にてそれぞれ合併が決議される。同年9月14日には逓信省からの合併認可も下りた。そして同年10月18日、関西水力電気にて合併報告総会が開催されて合併が完了、同日をもって名古屋電灯は解散した。またこの総会にて関西水力電気は「関西電気株式会社」へと改称している。 こうして名古屋電灯は消滅したが、この合併では形式上は関西水力電気を存続会社とするものの実質的には規模の大きい名古屋電灯による関西水力電気の吸収であり、その証左に本店は奈良市から名古屋市に変更され(名古屋市新柳町の旧名古屋電灯本社を引き続き使用)、経営陣も社長福澤桃介、副社長下出民義、常務神谷卓男・角田正喬など名古屋電灯側の役員が入ったのに対し関西水力電気から選任されたのは常務の加納由兵衛(関西電気では取締役)のみであった。
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