名古屋電灯との合併
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1916年(大正5年)に入ると経営陣に動きがあり、まず2月に取締役のうち岡本太右衛門・桑原善吉が辞任した。その直後の時点では社長の豊島半七を含む取締役3名・監査役2名はすべて一宮の人物であったが、同年3月に取締役・監査役全員が辞任し、4月に幡豆郡一色村(現・西尾市)の徳倉六兵衛(社長就任。豊橋電気取締役兼)ら一宮市外の人物と交代した。この直後、豊橋市の電力会社豊橋電気において株主総会に一宮電気の合併が付議されたが、可決されていない。 次いで翌1917年(大正6年)2月1日、一宮電気は一色村にある塩酸カリ製造などを目的とする愛知電気工業株式会社(1916年7月27日設立、資本金50万円)を合併した。合併に伴う一宮電気の資本金増加は50万円であったが、その後1917年11月に資本金を50万円へと改めている。この時期、織物業の電動力導入が急激に増加して電力需要が伸長するが、一宮電気の供給力がそれに伴わないという問題が生じていた。さらに1919年(大正8年)には電力料金の値上げに絡む需要家との対立や、一宮町と締結していた報償契約の改訂をめぐる紛争も発生した。こうした中で、需要増加に対処できなくなった一宮電気は電源である名古屋電灯との合併に踏み切った。 名古屋電灯との合併仮契約は1919年12月3日に締結。合併条件は、存続会社の名古屋電灯は75万円を増資し、それに伴う新株1万5000株(額面50円払込済み)を解散する一宮電気側へ交付する、というものであった。なお締結時の一宮電気社長は八木平兵衛(名古屋市の人物、豊橋電気取締役)が務めている。その後12月20日の名古屋電灯株主総会にて合併が議決され、翌1920年(大正9年)3月30日逓信省の合併認可が下り、同年4月24日に名古屋電灯で合併報告総会が開かれて合併手続きが終了、同日をもって一宮電気は解散した。なお、合併手続き中の同年3月に小木変電所と一宮町内の一宮変電所を結ぶ送電線が完成をみた。 一宮電気の合併以降、名古屋電灯は周辺事業者の合併を積極化し翌年には岐阜電気・豊橋電気・板取川電気などを相次ぎ合併、さらには奈良県の関西水力電気と合併し、1922年(大正11年)には先に挙げた尾州電気(旧一宮瓦斯)や九州の九州電灯鉄道などを合併して、中京・関西・九州にまたがる大電力会社東邦電力となった。一宮の電気事業も同社の所管となり、一宮市には東邦電力一宮営業所、後の一宮支店(1936年10月1日付で昇格)が置かれた。
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名古屋電灯との合併
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「名古屋電灯#相次ぐ合併」も参照 1921年3月末の時点で、関西水力電気の供給実績は電灯取付数10万6913灯(需要家数5万998戸)、電力供給2,131馬力(1,589キロワット)であり、供給区域は奈良市を中心に一部京都府にもまたがる80市町村に及んでいた。しかし第一次世界大戦の影響を受けた需要増加の一方で経費の高騰を招き、特に資金面では苦境に陥った。 関西水力電気は1921年3月31日、愛知県名古屋市の電力会社名古屋電灯との間に合併契約を締結した。名古屋電灯は1920年(大正9年)より周辺事業者の合併を積極化しており、1921年までに同じ愛知県内や隣の岐阜県の事業者計6社を合併していた。一連の合併後の名古屋電灯の資本金は4848万7250円であり、関西水力電気は当時資本金450万円であったから、関西水力電気よりも10倍以上規模の大きい会社であった。また設立は1887年(明治20年)、開業は1889年(明治22年)で、旧奈良電灯よりも歴史が長い。社長は1914年(大正3年)より福澤桃介が務める。名古屋電灯の大株主会における福澤の説明によると、関西水力電気は名古屋電灯や兼営電気事業を持つ大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)との合併交渉を進めたところ、大阪電気軌道とは条件の折り合いがつかず交渉不成立となるが、名古屋電灯が対等以上の合併条件という要求を容れたため合併する運びとなったという。 名古屋電灯との合併は、規模の小さい関西水力電気側を存続会社とし、名古屋電灯側が解散する逆さ合併であり、関西水力電気は資本金を450万円から6914万9650円へと増資し、増資額6464万9650円に対する新株129万2993株を発行、これを名古屋電灯の株主に対し持株3株につき4株の割合で交付する、という合併条件であった。名古屋電灯側による表向きの合併理由は、関西水力電気は割高な火力発電や購入電力の利用も多く需要の増加に応じきれていない状況にあり、需要開拓の余地を多く残す同社の供給区域に名古屋電灯や姉妹会社大同電力の廉価な電力を供給できれば事業に将来性がある、また関西地方進出の足掛かりとして奈良は地の利もあるというもの。また名古屋電灯側が解散するという合併条件について経営陣は理由を詳しく説明しなかったというが、名古屋の新聞『新愛知』は関西水力電気側には勢力の大きい会社を合併することによる株価の高騰、名古屋電灯側には持株数の増加や合併慰労金などの交付があって双方の株主に利益となるためであろうという推測を載せている。 合併は同年4月28日に名古屋電灯側、29日に関西水力電気側の株主総会でそれぞれ議決される。合併決議の総会にて関西水力電気は決算期を3月・9月から名古屋電灯と同じ5月・11月に変更し、福澤以下名古屋電灯の全役員(取締役10名・監査役2名)をそのまま役員に加えている。その一方、関西水力電気の従来の役員(社長森久兵衛・常務加納由兵衛ほか取締役3人・監査役3人)は同年9月23日付で辞任した。 合併については1921年9月14日に逓信省の認可が下り、同年10月18日に実行に移されて名古屋電灯は解散、同時に関西水力電気は社名から「水力」を外して関西電気株式会社へと改称した。このように手続的には関西水力電気が名古屋電灯を合併した逆さ合併であるが、実態としてはその反対、名古屋電灯による関西水力電気の吸収であった。本店については、合併が成立した当日の株主総会にて社名変更とともに名古屋市への移転が決定されており、関西電気は本社を奈良市ではなく名古屋電灯時代のまま名古屋市新柳町に置いた。役員も総会にて関西水力電気から加納由兵衛が取締役に選出された以外は名古屋電灯時代のままであり、経営陣は社長福澤桃介、副社長下出民義、常務角田正喬・神谷卓男といった顔ぶれであった。
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名古屋電灯との合併
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岐阜市会では、1919年5月16日、一部議員から岐阜電気の事業を市営に移すという電気事業市営の建議案が出された。これには、道路改良や上水道・下水道整備などの実現に向けて、有力な事業を市で経営しその利益をもって財政の基盤を確立する、という狙いがあった。市営化案が具体化されることはなかったが、続いて電灯料金の値上げ問題が発生した。値上げは大戦以来の物価・賃金高騰のためとして1920年3月1日付で実施されたが、同年2月に岐阜電気が値上げの承認を市会に求めた際に柳ヶ瀬などの地域で値上げ反対運動が発生したのである。2月末に会社案より値上げ幅を抑える形で値上げ申請は市会を通過し、定額灯の月額料金は5燭灯で60銭、10燭灯で70銭、16燭灯で90銭などとなった。 岐阜電気の電気料金は、近隣事業者である名古屋電灯に比して電灯料金が高く、電力(動力)料金は安価であったことから、1920年の値上げが検討されはじめたころには電力料金を名古屋電灯並みに引き上げる方向であろうと報道されていたが、実際には電灯料金の引き上げが実行された。価格転嫁が比較的容易な電力料金を値上げできず、需要家の抵抗が強い電灯料金値上げの方を実行せざるを得なかった背景には、地盤の岐阜市が名古屋より工業発展の点で劣っていたことにある。こうした価格決定力の弱体化に加え、1918年より動力用電力供給を名古屋電灯の協力なしには行えない状態に陥っており、岐阜電気は単独経営が困難な状況に追い込まれ、最終的に名古屋電灯との合併を選択した。 1920年9月、社長岡本太右衛門が上京して名古屋電灯社長福澤桃介と交渉した結果、名古屋電灯・岐阜電灯の合併合意に至り、24日名古屋にて合併契約の調印が完了した。その合併条件は、 存続会社を名古屋電灯とし、岐阜電気は合併に伴い解散する。 名古屋電灯は資本金を825万円増加し、岐阜電気(当時資本金600万円・払込375万円)の株主に対しその持株1株につき名古屋電灯新株1.375株を交付する。 名古屋電灯は従業員に対する解散手当その他の原資として10万円を岐阜電気に交付する。また重役に対する功労金も名古屋電灯から支出する。 という内容であった。合併は同年10月25日に双方の株主総会にて可決される。同年12月22日付で逓信省の合併認可も下りた。そして翌1921年(大正10年)1月23日に名古屋電灯側にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了、同日をもって岐阜電気は解散した。合併2か月後の3月25日、名古屋電灯は岐阜市今川町2丁目22番地(元岐阜電気所在地)に支店を開設している。 名古屋電灯にとって岐阜電気の合併は前年に吸収した愛知県一宮市の一宮電気に続くもので、以降も豊橋電気・板取川電気(岐阜県)などを合併。さらに奈良県の関西水力電気と合併したのち1922年(大正11年)には九州の九州電灯鉄道などを合併して、中京・関西・九州にまたがる大電力会社東邦電力となった。東邦電力の本社は東京市に移されたが、岐阜市には引き続き支店が置かれた。また岐阜電気が発起人に加入していた岐阜興業は1921年11月に資本金500万円にて会社の設立をみた。東邦電力では成立早々にこの岐阜興業の経営を掌握するべく動き出し、1922年6月、同社の株式のうち6割を取得した(同時に岐阜電力へ改称)。以後飛騨川開発が順次進展し、有力な水利地点を持たずに発足した東邦電力にとって飛騨川は重要な電源地帯となった。
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