合併の余波
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「豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「合併の余波」の解説
豊橋電気は名古屋電灯との合併を取りまとめるのに先立つ1920年5月、恐慌下における電力需要創出策として上水道敷設を計画していた。計画は豊橋電気の電力を利用して豊川から水をくみ上げ豊橋市内へと送水するというものである。この計画はその後立ち消えとなったが、同年9月豊橋市会にて計画承認の可否が検討された際、賛成意見の一方で公共的事業を営利本位の会社に任せることは市民の利益にならないという反対意見もあり、議論は沸騰した。これに続く名古屋電灯との合併発表は、地元資本が外部の資本に吸収されると捉えられて地元豊橋の反発を招く。以前から議論があった電気事業の市営移管に向けた動きが強まり、同年12月16日豊橋市会の議員協議会において全会一致で事業の市営移管が決定された。 豊橋市と豊橋電気の間には、1909年4月8日(当時の豊橋市長は大口喜六)に締結された報償契約が存在した。これは締結から20年間、会社が市内での事業で生じる利益金のうち1.7パーセントを報償金として市へ納付する一方、それと引き換えに市は自身が所有・管理する道路・橋梁その他を会社が独占的に利用することを認める、という内容であった。報償契約には会社が他社と合併する場合は市の承認を要するという条項もあり、これに従って豊橋電気は株主総会での合併決議が終わると直ちに市へ合併承認を求めた。市が市営化の具体案を検討中で、まだ合併承認も与えていない中の1921年2月5日、名古屋電灯は市内料亭にて細谷忠男豊橋市長らを招いて合併披露宴を開催する。その翌日、市では市による事業買収権を報償契約に追加するならば合併を承認すると提起した。 名古屋電灯と豊橋電気の合併については1921年3月29日付で逓信省からの合併認可が下りた。そして同年4月20日に名古屋電灯側で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了、同日をもって豊橋電気は解散した。合併により豊橋市には名古屋電灯豊橋営業所が置かれた。 合併成立後も報償契約改定・事業市営化についての交渉が市と名古屋電灯との間で続けられたが、交渉は進展せず、1921年7月29日、豊橋市会は交渉の経過を公表した上で名古屋電灯・豊橋電気合併の不承認を全会一致で決議した。不承認決議を機に豊橋市民の間でも市営化に応じない名古屋電灯を非難する声が高まり、市会議員による演説会や新聞社主宰の市民大会が相次ぎ開催されるようになる。やがて争点は電気料金の値下げへと移行していき、「電気料金値下期成同盟会」が発足。さらには市会に強固な地盤を持つ元豊橋電気相談役大口喜六が率いる「同志派」に対する攻撃へと発展し、政治問題と化していった。期成同盟会は名古屋電灯と交渉するが、川口彦治愛知県知事が仲裁に入り、知事から委嘱された宝飯郡長・豊橋警察署長により調停を開始。1921年10月、翌年7月から電灯料金を引き下げる、合併記念として公会堂を建築して市に寄付する、といった内容の仲裁案が示され、同盟会・会社側ともにこれを受諾、同盟会は11月に報告演説会を開いて運動の終結と勝利を宣言して一連の「電価争議」は一応の決着をみた。 市営化問題に関し、豊橋電気社内で市営化賛成論を唱えていた専務取締役武田賢治と支配人今西卓の2名は合併を機に独立、新たに「豊橋電気信託」という会社を立ち上げて1921年11月に渥美半島の渥美電気・福江電灯両社を統合した。同社は翌1922年(大正11年)に社名を変更し、「豊橋電気」という社名を引き継いでいる。一方(旧)豊橋電気を吸収した名古屋電灯はその後も合併路線を突き進み、奈良県の関西水力電気と合併して関西電気となったのち、翌1922年に九州の九州電灯鉄道などを合併して、中京・九州地方を地盤とする大手電力会社東邦電力へと発展する。以後豊橋区域の電気事業は東邦電力によって経営されるが、1930年(昭和5年)から1937年(昭和12年)までの間は西三河の岡崎電灯との統合による中部電力(岡崎)という会社の管轄下に置かれた。
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