合併に至る経緯
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2002年(平成14年)2月、(当時の)三好郡6町2村で「三好郡合併問題研究会」を設立した。しかし、小さな枠組みを望む東部4町と、大きな枠組みを望む西部2町2村の隔たりは大きく、三好郡全体の合併に向けた法定の合併協議会を設立することはできなかった。この時点で、東部の井川町は合併の枠組みに関して明言を避けていた。西部の西祖谷山村も合併の是非に関して明言を避けていた。 2003年(平成15年)7月、三好郡西部2町2村が、井川町の合流による市制を望み「市制を目指す協議会」を発足。しかし、井川町が東部の枠組みを選択したため西部中心の市制は不可能になり、「市制を目指す協議会」は解散した。合併の枠組みは、「東部4町」と「西部2町2村」で確定し、それぞれ法定の合併協議会を設立して協議を進めることになった。「西部」では、「東部」と「西部」がそれぞれ合併した後に、「東部」に「西部」が合流する再合併を求める声もあった。 2004年(平成16年)9月、「西部2町2村」では人口の6割以上を占める池田町への一極集中を懸念する声が山城町・西祖谷山村で強まる。山城町で「西部」からの離脱へ向けた動きが出始める。この直後、「東部」の井川町議会で、財政格差や公共下水道事業を理由に「東部」からの離脱を可決。井川町の離脱表明を受け、同じく「東部」の三野町も同合併協議会での協議を凍結。この2町の動きを受け、山城町の動きは沈静化した。 2004年(平成16年)11月、「東部」から井川町・三野町が離脱し、「西部」に加入。ただし、飛び地となる三野町では1票差での協議会参加議案可決となった。「西部」は4町2村で協議を継続。「東部」も協議会を解散せず、2町で協議を継続。以上により、東部2町、西部4町2村の枠組みとなった。 2004年(平成16年)12月、合併協議会で新市名を巡って、一体感を優先する「三好市」案と民意を優先する「阿波池田市」案が対立。異例の投票決着となり、「三好市」案が2票差で「阿波池田市」案を下した。新市名は「三好市」に決定した。 2005年(平成17年)1月、新市名が「三好市」に決定したことを巡り、池田町で反対意見が強まる。池田町議会では、「合併を見直しても良いのではないか」などの強硬意見も出された。 2005年(平成17年)2月、4町2村が合併協定書に調印した。 2005年(平成17年)4月、三好市発足が官報に公示される。
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合併に至る経緯
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由木村のある南多摩郡では、当時、合併や町制施行が相次いでおり、由木村もその対応が迫られていた。当時、由木村の村民の中には、石井栄治村長を中心とした八王子市との合併を目指す派閥と、日野市との合併を目指す派閥に分裂する事態が起こっていた。そして、その対立は大変深刻なものとなっており、新聞記事にも載るほどになっていた。結局、事態を収拾するため住民投票で合併先を選択することとなり、八王子市合併派が日野市合併派を上回る結果となったため、八王子市との合併に至った。また、日野市合併派の一部住民は、八王子市に合併後も八王子から分村するように働きかける等、しばらくの間抵抗を続けた。
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