名古屋電灯副社長
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名古屋電灯にて民義が福澤とともに活動を始めつつあった1913年秋、名古屋電灯社長で元名古屋市長の加藤重三郎らが遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された。加藤らは1913年12月第一審で有罪となった後翌1914年(大正3年)の第二審で結局無罪となったが、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に福澤を社長代理に指名。さらに同年12月加藤が取締役社長を辞任すると、翌1914年12月福澤桃介を後任社長に選出した。一方民義は、福澤が社長代理となると不在時の常務代理を委託され、福澤が社長に昇格するとともに取締役から常務取締役に昇格した。1918年(大正7年)2月、定款の改訂により副社長のポストが新設されると、民義は副社長に就任している。福澤は名古屋電灯社長就任後も本拠地は東京のままで、会社の人事と金融を担当。一方で日常の業務のほとんどは常務・副社長の民義が担当し、時折上京して福澤と連絡しつつ代行した。 1916年(大正5年)8月、余剰電力を活用してフェロアロイ(合金鉄)などを製造するため電気製鋼所(後の木曽川電力、特殊鋼メーカーである大同特殊鋼の前身の一つ)が名古屋電灯の出資で設立されると、民義は同社の初代取締役社長に推された。ただし、もっぱら事業経営の画策にあたったのは、同事業を企画し常務取締役に就任した名古屋電灯顧問の寒川恒貞で、民義は社業の見通しがついたとして翌1917年(大正6年)9月取締役社長から退き相談役となった。後任社長は福澤桃介が兼任することとなり、民義はその下に長男の義雄を取締役兼支配人として入社させた。 電気製鋼所の設立に続いて1918年(大正7年)9月、名古屋電灯などの出資により資本金1,700万円にて木曽電気製鉄が設立され、木曽川・矢作川における電源開発事業などがこの新会社に移された。同社は福澤が社長を兼任し、民義もまた副社長に就任した。木曽電気製鉄(1919年以降は木曽電気興業と称す)は発足後、名古屋電灯から建設を引き継いだ木曽川の賤母発電所を1919年(大正8年)に完成させるなど、順次電源開発事業を展開していく。さらにこの電力を関西地方へと送電すべく同地方の電鉄会社京阪電気鉄道と共同し、資本金2,000万円の大阪送電を1919年11月に設立、関西進出への準備に着手した。この大阪送電の社長も福澤が兼任し、木曽電気興業から民義と増田次郎、京阪から太田光熈らが常務取締役となった。 事業の一方、1913年10月名古屋市会議員に選出され、会社と名古屋市の間に立って意思疎通に努めた。市会議員は1917年(大正6年)10月にも再選し、満期の1921年(大正10年)10月まで2期8年務めている。当時、民義以外にも名古屋電灯関係者が多数市会に在籍しており、民義を含め立憲政友会系の同社関係者である大喜多寅之助(議長の後市長就任)・青山鉞四郎(大喜多の後任議長)・加藤重三郎・兼松煕・藍川清成らのグループは「電政派」と呼ばれた。このグループは市政掌握を狙って議長や市長の座を狙うが、1921年6月に現職市長佐藤孝三郎への不信任案を可決し大喜多を議長から市長に就任させると、市政運営について野党や市民からの強い批判を招くことになる。 市会議員在職中の1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、衆議院議員となった(当選1回)。選挙区は愛知県第4区(西春日井郡)、所属政党は立憲政友会である。
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