名古屋電灯の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
詳細は「名古屋電灯」を参照 東邦電力の前身名古屋電灯株式会社は、1887年(明治20年)9月20日に設立された、東京電灯に次ぐ国内2番目の電力会社である。当初の資本金は7万5000円で、旧尾張藩の士族が経営にあたり、名古屋市内を対象として2年後の1889年(明治22年)12月より供給を開始した。開業時の電灯取付個数は約400灯で、電源は25キロワット (kW) 発電機を4台備える火力発電所であった。このような小さな規模でスタートした事業はその後拡大し続け、開業から20年を経た1909年(明治42年)には電灯数約5万5千灯、動力用電力供給約1千馬力を数えるまでに発展する。この翌年には出力4,200kWの水力発電所として長良川発電所を建設。さらに1910年(明治43年)には木曽川において八百津発電所(出力7,500 kW)を建設していた未開業の名古屋電力を合併し、工事を引き継いで1911年(明治44年)に完成させた。 この名古屋電灯の経営に途中から参入したのが東京の実業家福澤桃介である。1909年から株式買収に着手して筆頭株主まで登り、1910年取締役、半年後には常務取締役に就任し経営に参画し始める。名古屋電力との合併交渉を纏めた後一度常務を辞任するが、1913年(大正2年)になって復帰。当時の社長が辞任すると社長代理を経て翌1914年(大正3年)社長に昇格した。折りしも第一次世界大戦が始まった頃で、以降戦後にかけて需要増加の波に乗って供給を拡大、開業30年を迎えた1919年(大正8年)には電灯数は約33万4千灯、電力供給は約3万6千馬力へとそれぞれ伸長している。 名古屋電灯は明治末期より木曽川上流部に水利権を確保しており、社内に臨時建設部を設置して開発にあたらせていたが、これを独立させて1918年(大正7年)9月に木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)を設立した。長良川・八百津両発電所は名古屋電灯の元に残ったものの、この新会社設立により名古屋電灯は配電事業に専念し、電源開発は木曽電気製鉄が担当する、という体制ができあがった。同社はその後1921年(大正10年)、合併により大同電力株式会社となっている。 配電専業となった名古屋電灯は、1920年(大正9年)以降周辺の事業者の統合を積極化する。まず同年5月、一宮市の一宮電気を合併。次いで岐阜県にも進入し、翌1921年2月岐阜市の岐阜電気を合併、同年4月には愛知県豊橋市の豊橋電気をそれぞれ合併した。同年8月には、岐阜県の美濃町・関などを供給区域とする板取川電気、愛知県の犬山や岐阜県の可児などを供給区域とする尾北電気、岐阜県内に発電所を持つ美濃電化肥料の3社を合併している。この6社合併により、資本金は4848万7250円へと膨張した。
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