名古屋電灯との合併へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:13 UTC 版)
「豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「名古屋電灯との合併へ」の解説
大戦終了後も需要増加は続き、1920年(大正9年)12月末時点の供給成績は2年前に比べて電灯数は1.3倍増の6万6319灯、電力供給は1.5倍増の1,032キロワットへと伸長した。 この間、まず1919年(大正8年)7月に建設中の布里発電所(出力500キロワット)が運転を開始。次いで12月、「豊橋電化工業株式会社」から計画を引き継いだ横川発電所を着工した。この豊橋電化工業はカーバイドなどの電気化学工業品製造と電力供給を目的とした会社で、1918年6月21日資本金60万円をもって豊橋市に設立、1919年12月5日付で豊橋電気に合併されていた。合併に伴う豊橋電気の増資は40万円で、資本金は240万円となった。電源増強の動きは他に受電の手配もあり、1919年3月に設立された福澤系の電力会社矢作水力との間で500キロワットの受電を契約した(契約は会社設立前の1918年10月実施、受電開始は1921年初頭)。また供給面では渥美半島の渥美電気・福江電灯へ送電することとなり1919年2月工事を完了した。 供給増の一方で、1920年3月、大戦景気が終焉し戦後恐慌が発生していた。恐慌直前まで豊橋では地場産業の製糸業が盛況で、豊橋電気には工場拡張のための電力供給申し込みが殺到していたが、恐慌発生後は状況が一変し供給を断る需要家が多数生じた。発電所工事中のため一時は会社の先行きが不安視されたが、需要家側には好況期に電力使用権の争奪戦が生じた経験から権利喪失を恐れて電力の使用を中止するものの料金は納める者、あるいは料金未納者から権利を引き取るために代理払込みをなす者もあり、供給力不足の傾向は続いた。 豊橋電気社長の福澤桃介は、1914年12月より名古屋電灯の社長でもあった。社長が共通する名古屋電灯と豊橋電気を合併させる計画は恐慌以来重役間で内々に検討されていたが、地元出資者の反対などがあったようですぐには実施されなかった。その後1920年12月になると合併案がまとまり、12月5日付で合併仮契約締結に至った。契約の主たる内容は以下の通りである。 名古屋電灯を合併における存続会社とし、豊橋電気は解散する。 存続会社の名古屋電灯は豊橋電気の1920年10月末現在の資産負債状態を基礎として同社の権利義務一切を継承する。 合併により名古屋電灯は資本金を4578万円に増加し、その増加分378万円に対し株式7万5600株(額面50円払込株式3万3390株・25円払込株式4万2210株)を発行する。それらを豊橋電気の1920年12月31日現在の株主(株式数は額面50円払込株式2万1200株・25円払込株式2万6800株)に対し持株1株につき1.575株の割合で交付する。 名古屋電灯は豊橋電気の取締役・監査役その他に対する慰労金として計20万円を交付する。 名古屋電灯は豊橋電気の従業員に対し特別手当金計5万円を支払う。 名古屋電灯は1918年9月に水力開発部門を木曽電気製鉄(後の大同電力)として切り離し配電事業中心の電力会社となると、周辺事業者の合併を積極化していた。1920年4月にまず一宮市の一宮電気を合併。次いで県境を越えて岐阜市の電力会社岐阜電気の合併に踏み切り、豊橋電気合併手続き着手後の1921年(大正10年)1月に合併を完了している。豊橋電気の合併は岐阜電気に続く3番目であり、名古屋電灯では1920年12月20日に株主総会を開いて豊橋電気合併の承認を得た。 名古屋電灯との合併を審議する豊橋電気側の臨時株主総会は名古屋電灯に1日遅れて12月21日豊橋市内で開かれた。その席で社長の福澤は名古屋電灯への合併理由について、目下不足している供給力を補充するには巨額の投資を要するが豊橋電気が置かれている状況では完全な事業遂行が困難なため、と説明している。総会で合併契約は原案通り可決承認された。
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