周辺事業者の合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:46 UTC 版)
広島電灯では1914年8月、需要増加への対応として太田川上流に発電所を新設することを名目(実現に至らず)に資本金を130万円から230万へと増資した。この増資は、65万円分を従来の株主に対し持株2株につき1株の割合で割り当て、残り35万円分を常務取締役を入れるという条件でシーメンス・シュケルト東京支社が引き受ける、という形で計画された。しかし第一次世界大戦勃発でシーメンスの出資が不可能となったため、元支社員で川北電気企業社を率いる川北栄夫がその出資分を肩代わりし、同じく元支社員で川北とつながりのある井原外助が広島電灯に常務として入った。 川北の資本参加を得た広島電灯では、従来の広島市とその周辺に限られた供給区域を拡大して事業の発展を期するべく、周辺事業者の統合を活発化させた。社業拡大を推進したのは、広島市長を務めたのち1910年3月常務として入社し、1913年4月に第5代社長に昇格した高束康一である。1920年(大正9年)にかけて統合した事業者は、芸備電気・尾道電気・三原電灯・加計電灯事務所の4社に及ぶ。各社の概要は以下の通り。 芸備電気株式会社 1917年2月28日付で合併。合併比率は1対1で、合併に伴う増資は42万円(ただし同年4月この分を減資)。 川北や岡崎(愛知県)の実業家らの発起により1912年2月に大阪市・川北電気企業社内に設立。広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)に火力発電所を設置し、竹原町とその周辺を供給区域として翌1913年5月に開業した。供給区域はその後西の賀茂郡三津町・西条町(現・東広島市)などに拡大している。 さらに1916年3月、芸備電気は賀茂郡阿賀町(現・呉市)の中国電気を合併した。同社は才賀藤吉が主宰する会社として1910年10月に設立。阿賀町にガス力(内燃力)発電所を構え、1912年1月より阿賀町と安芸郡警固屋町・音戸町(いずれも現・呉市)を供給区域として開業していた。 広島電灯では合併に先立ち川北電気企業社より芸備電気の株式を買収し、高束康一ら役員を同社に派遣した。こうした準備を経て1916年9月合併契約を締結、翌年合併に踏み切った。 尾道電気株式会社 芸備電気と同じ1917年2月28日付で合併。合併に伴う増資は24万円。 前身の尾道電灯は中国地方5番目・県内2番目の電気事業者として尾道市に1897年4月設立。本社・発電所は字尾崎に設置。歴史のある電力会社だが広島電灯のように拡大路線を採ることなく、供給区域は尾道市内と隣接する2町村に限られた。1916年8月、尾道電灯経営陣と川北・井原らが発起人となり資本金60万円にて新会社・尾道電気が発足、尾道電灯の事業を引き継いだ。その2か月後、尾道電気は広島電灯との合併を決定した。 三原電灯株式会社 1918年(大正7年)4月1日付で事業買収。 前身は才賀藤吉率いる兵庫県の明石電灯が御調郡三原町(現・三原市)に構えた明石電灯三原支社。同支社は1911年12月に開業したが、尾道電灯と同様に事業規模は限定的であった。発電所は三原町大字三原字古浜新開に構えた。1917年7月、川北・井原らを発起人として資本金10万円の三原電灯が設立され、同年12月、三原支社の事業を継承する。そして翌1918年1月、広島電灯との間で10万698円で事業を売却する契約を締結した。 加計電灯事務所 1920年(大正9年)5月事業買収。 山県郡加計町(現・安芸太田町)に供給していた小事業者で1903年3月発足。猪原良右衛門ほか3人の共同経営にて始まったが、1908年から猪原の個人経営に移っていた。広島電灯への事業売却価格は1万7000円。 広島電灯が周辺事業者の統合を推進したのと並行して、競合会社の広島呉電力も事業統合を積極化させていた。広島呉電力による統合は広島電灯の3倍多い12社に上り、江田島・三次・庄原・福山といった地域や岡山県の一部が同社の供給区域となっている。
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