周辺人物との関係とは? わかりやすく解説

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周辺人物との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:49 UTC 版)

望月圭介」の記事における「周辺人物との関係」の解説

人の好き嫌いはっきりしており誰でも好意を持つということはなかった。同郷政友会議員でも仲が良くないものもいれば、政敵であった党の中に仲良くしていたものもいた。 最初政党自由党としたのは、板垣退助尊敬したことから。毎年行われた追悼法会には必ず世話人になった昭和4年1929年12月8日日光東照宮板垣退助像(初代)建立時には序幕式で、式辞述べている。 「日光の板垣像建立」も参照 星亨自由党/立憲政友会先輩にあたり尊敬していた。星から「憲法政治強調譲り合い政治であるから絶対という言葉慎もうではないかと言われ以降望月絶対という言葉を使わなかった。岸田正記望月から絶対という言葉はめったに使うなと言われている。 原敬とはお互い信頼しあっており、上記以外にも逸話がある。原とは当初は“フランス帰りキザなハイカラさ”に性が合わなかった。ただ伊藤博文が「今に一番偉くなるぞ」と原を高く評価していたこと、そして原の真理理解してくると、以降に対して絶対的に信頼していった。望月は「原ほど傑れて公平な人はいない。国家のためにいつでも死ねる人だ。」と評価し、原が凶弾倒れた際はひどく落胆した政友会当時祝宴になると三縁亭を用いていた。原内閣成立祝宴行っていた時、望月は原に「もう三縁亭は止めてもうちょっと気の利いたにしてはどうです?」と言った。これに原は「三縁亭は政友会低迷していた頃から親切にしてくれた。今更変えるなど忍びないじゃないか」と答えた。これに望月は原の手をとって「ああ、これこそ政友会総裁だ。」と涙したという。 望月幹事長時代栃木県有志たちが北海道土地払い下げ運動のため陳情に来た。幹事長了承すれば内務省北海道長官賛成するとして、望月のところに来たわけである。ただ望月は「そんな利権案には賛成出来ない」とはねつけた。これに脱党届をちらつかせる強行に出るも、望月は「君達一群挙って脱党してもその問題には賛成出来ないよしんば一県を挙げて脱党して賛成出来ない。ただし君達一言しておくが、君達もかかる利権案のために脱党した合って面目が立つまいから他の名目でやり給え。」と一喝した。これに怒った有志たちが原のところへ行くと、原は望月支持し有志たちを諭したという。 高橋是清校長務めていたことがある共立学校望月入学したが、当時2人交流あったか不明望月議員2年目になると高橋に連れられて遊び回っていたという。望月政友会幹事長4度務めるがうち3度高橋総裁時代のことになる。上記生涯のとおり高橋二・二六事件凶弾に倒れるまで関係は続いた鈴木喜三郎とは党の方針対立したことにより望月政友会離党したが、名川侃市によると2人の仲はとても良かったという。少年時代に同じ下宿先だったころからの仲であり、お互いフランク接していた。名川岸田は、望月鈴木が子どものような言い合いをしていたところをたびたび目撃している。 鳩山一郎のことは嫌っていた。理由一つとして年功序列重んじないため。名川によると政友会鈴木派対立していった理由には鳩山存在もあったという。 秋田清は、望月逓相となった時に政務次官として下についた。これは小泉策太郎の策で望月にはしっかりした女房役が必要と考えたことから。“人使い名人望月と“鬼才”“曲者”として知られ秋田とは相性よかった望月内相選ばれたのは望月の人徳評価されたことに加え政務次官としての秋田の手腕を期待されたためで、望月秋田はともに内務省転籍している。その後2人の関係は続き望月の臨終にも立ち会っている。 宮澤裕大臣時代望月の秘書官務めた宮澤選んだのは望月若手時代問責脱党した頃からの政友会先輩である小川平吉娘婿であったため興味湧いたことと、同郷だったからと言われている。宮澤可愛がったようで、例えある日内相官舎宮澤吉田茂長岡隆一郎呼んでカモ焼いて食べていると、そこへ通りかかった望月がそれは違うと彼ら3人にカモ焼き方食べ方を指導した吉田によると、望月のやり方のほうが格別にうまかったという。 池田勇人生家池田家望月の支援者であった岡田啓介田中内閣以前から知り合いだという。仲がよく、特に岡田首相になってから望月はなにかと便宜図った望月の墓に刻まれ文字岡田の書である。 美濃部達吉天皇機関説事件によって国賊とされ外出もできず、その立場同情するものもいたが美濃部宅を訪れるものは皆無だった。そこへ当時逓相望月義侠心から美濃部宅へ慰問訪れたそれ以来2人親しくなった。 現在望月の胸像生家そばの大崎公園にある。望月懇意にした上田直次作。これにまつわる2つの話がある。内務大臣時、昭和天皇御大典護衛大任を無事終えたことと御大典祝賀目的として胸像作られた。発起人佐上信一佐々木良一、名川侃市渡辺伍森田福市大橋信吉宮澤裕村井二郎吉、岸本斐夫、高宗侊一、嶋居哲堀内廉一、中田謙二細川潤一郎、宮地茂秋宮本源之助、小山梅田寛一久保田金四郎木村寛一、木島茂藤田三郎。ほか全国有志500人から募り、2個作られ生家寄付した望月辞退するわけには行かず受け入れた本郷町付近町村有志お金集めて作ろうとしたが、お金足りなかったため、有志達はついに望月お金頼み込んだ望月は「大体わしは銅像など作ってもらうことが迷惑なのに、その上金まで出せとは全く持ってけしからん。いけんいけん、やめやめ。」と一銭も出さなかった。銅像はできかかっていたため止めることはできず、仕方なく有志は更に金策走った。後にこの本郷有志上の500人の有志に加わることになる 望月死去の後、望月圭介伝記編纂委員会が結成された。このときのメンバーは、中島知久平大橋信吉胎中楠右衛門名川侃市佐々木良一、中田謙二岸田正記鳥越雅一、野村秀雄宮澤裕青木精一春名成章大石主計志田了介、三枝博音編纂主宰三枝、その下に鳥井博郎宅間道哉がついた。

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「周辺人物との関係」を含む「望月圭介」の記事については、「望月圭介」の概要を参照ください。

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