周辺人物との関係
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人の好き嫌いがはっきりしており誰でも好意を持つということはなかった。同郷の政友会議員でも仲が良くないものもいれば、政敵であった党の中に仲良くしていたものもいた。 最初の政党を自由党としたのは、板垣退助を尊敬したことから。毎年行われた追悼法会には必ず世話人になった。 昭和4年(1929年)12月8日、日光東照宮の板垣退助像(初代)建立の時には、序幕式で、式辞を述べている。 「日光の板垣像建立」も参照 星亨は自由党/立憲政友会の先輩にあたり尊敬していた。星から「憲法政治は強調譲り合いの政治であるから絶対という言葉は慎もうではないか」と言われ、以降望月は絶対という言葉を使わなかった。岸田正記は望月から絶対という言葉はめったに使うなと言われている。 原敬とはお互い信頼しあっており、上記以外にも逸話がある。原とは当初は“フランス帰りのキザなハイカラさ”に性が合わなかった。ただ伊藤博文が「今に一番偉くなるぞ」と原を高く評価していたこと、そして原の真理を理解してくると、以降原に対して絶対的に信頼していった。望月は「原ほど傑れて公平な人はいない。国家のためにいつでも死ねる人だ。」と評価し、原が凶弾に倒れた際はひどく落胆した。 政友会は当時祝宴になると芝の三縁亭を用いていた。原内閣成立の祝宴を行っていた時、望月は原に「もう三縁亭は止めてもうちょっと気の利いた所にしてはどうです?」と言った。これに原は「三縁亭は政友会が低迷していた頃から親切にしてくれた。今更変えるなど忍びないじゃないか」と答えた。これに望月は原の手をとって「ああ、これこそ政友会の総裁だ。」と涙したという。 望月が幹事長時代、栃木県の有志たちが北海道の土地払い下げ運動のため陳情に来た。幹事長が了承すれば内務省も北海道長官も賛成するとして、望月のところに来たわけである。ただ望月は「そんな利権案には賛成出来ない」とはねつけた。これに脱党届をちらつかせる強行に出るも、望月は「君達一群挙って脱党してもその問題には賛成出来ない。よしんば一県を挙げて脱党しても賛成出来ない。ただし君達に一言しておくが、君達もかかる利権案のために脱党したと合っては面目が立つまいから他の名目でやり給え。」と一喝した。これに怒った有志たちが原のところへ行くと、原は望月を支持し有志たちを諭したという。 高橋是清が校長を務めていたことがある共立学校に望月が入学したが、当時2人に交流があったか不明。望月が議員2年目になると高橋に連れられて遊び回っていたという。望月は政友会幹事長を4度務めるがうち3度が高橋総裁時代のことになる。上記生涯のとおり高橋が二・二六事件で凶弾に倒れるまで関係は続いた。 鈴木喜三郎とは党の方針で対立したことにより望月は政友会を離党したが、名川侃市によると2人の仲はとても良かったという。少年時代に同じ下宿先だったころからの仲であり、お互いフランクに接していた。名川や岸田は、望月と鈴木が子どものような言い合いをしていたところをたびたび目撃している。 鳩山一郎のことは嫌っていた。理由の一つとしては年功序列を重んじないため。名川によると政友会鈴木派と対立していった理由には鳩山の存在もあったという。 秋田清は、望月が逓相となった時に政務次官として下についた。これは小泉策太郎の策で望月にはしっかりした女房役が必要と考えたことから。“人使いの名人”望月と“鬼才”“曲者”として知られた秋田とは相性がよかった。望月が内相に選ばれたのは望月の人徳を評価されたことに加え政務次官としての秋田の手腕を期待されたためで、望月と秋田はともに内務省に転籍している。その後も2人の関係は続き、望月の臨終にも立ち会っている。 宮澤裕は大臣時代の望月の秘書官を務めた。宮澤を選んだのは望月が若手時代に問責脱党した頃からの政友会の先輩である小川平吉の娘婿であったため興味が湧いたことと、同郷だったからと言われている。宮澤も可愛がったようで、例えばある日、内相官舎で宮澤が吉田茂・長岡隆一郎を呼んでカモを焼いて食べていると、そこへ通りかかった望月がそれは違うと彼ら3人にカモの焼き方食べ方を指導した。吉田によると、望月のやり方のほうが格別にうまかったという。 池田勇人の生家・池田家は望月の支援者であった。 岡田啓介は田中内閣以前から知り合いだという。仲がよく、特に岡田が首相になってから望月はなにかと便宜を図った。望月の墓に刻まれた文字は岡田の書である。 美濃部達吉は天皇機関説事件によって国賊とされ外出もできず、その立場を同情するものもいたが美濃部宅を訪れるものは皆無だった。そこへ当時逓相の望月は義侠心から美濃部宅へ慰問に訪れた。それ以来、2人は親しくなった。 現在望月の胸像が生家そばの大崎公園にある。望月も懇意にした上田直次作。これにまつわる2つの話がある。内務大臣時、昭和天皇御大典護衛の大任を無事終えたことと御大典祝賀を目的として胸像が作られた。発起人は佐上信一、佐々木良一、名川侃市、渡辺伍、森田福市、大橋信吉、宮澤裕、村井二郎吉、岸本斐夫、高宗侊一、嶋居哲、堀内廉一、中田謙二、細川潤一郎、宮地茂秋、宮本源之助、小山寛蔵、梅田寛一、久保田金四郎、木村寛一、木島茂、藤田好三郎。ほか全国の有志約500人から募り、2個作られ生家に寄付した。望月は辞退するわけには行かず受け入れた。 本郷町付近町村の有志がお金を集めて作ろうとしたが、お金が足りなかったため、有志達はついに望月にお金を頼み込んだ。望月は「大体わしは銅像など作ってもらうことが迷惑なのに、その上金まで出せとは全く持ってけしからん。いけんいけん、やめやめ。」と一銭も出さなかった。銅像はできかかっていたため止めることはできず、仕方なく有志は更に金策に走った。後にこの本郷の有志は上の500人の有志に加わることになる 望月死去の後、望月圭介伝記編纂委員会が結成された。このときのメンバーは、中島知久平、大橋信吉、胎中楠右衛門、名川侃市、佐々木良一、中田謙二、岸田正記、鳥越雅一、野村秀雄、宮澤裕、青木精一、春名成章、大石主計、志田了介、三枝博音。編纂主宰は三枝、その下に鳥井博郎と宅間道哉がついた。
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