脱党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 05:25 UTC 版)
「オットー・シュトラッサー」の記事における「脱党」の解説
ヒトラーは1930年5月21日から22日にかけて7時間にわたりオットーと激論してなんとか懐柔しようとしたが、結局失敗した。この会談の失敗で、ヒトラーは懐柔策としてオットーに与えるはずだった全国宣伝指導者(Reichspropagandaleiter)職のゲッベルスへの委譲と、オットーの党除名を決意した。 1930年6月30日、ヒトラーは1926年半ば頃に自派に取り込んでいたゲッベルスに、オットーらナチス左派幹部の党追放を命じた。というのも、1930年、ヒンデンブルク大統領侮辱罪で法廷に立ったゲッベルスは、自分はかつてヒンデンブルク支持者でルール紛争の際にはベルギー軍につかまって牢に入れられ鞭打たれた経験をもつ闘志であると弁明したが、これに対してナチス左派のモサコーフスキーがゲッベルスのこの感動的な物語の嘘を暴露した記事を掲載したことが動機となったためであった。 7月2日、これを受けたゲッベルスはベルリン党役員会議でオットーの党除名を決議した。オットーらは抗議のために党役員会議を開くよう迫ったが、クルト・ダリューゲが指揮する親衛隊につまみだされて党集会に参加出来なかった。 7月4日にはオットーも新聞紙面でナチス党からの離脱を宣言した。しかし追従者は僅か24名だけであった。 その後は人狼団やオーバーラント団 (de)、北ドイツ突撃隊の最高司令官で1931年にゲッベルスと大喧嘩して彼に反乱を起こしたヴァルター・シュテンネス大尉、黒い国防軍のブルーノ・ブーフルッカー(de)少佐などとともに 『革命的国民社会主義闘争集団(Kampfgemeinschaft Revolutionärer Nationalsozialisten, KGRNS)』を結成。後に同団体は『黒色戦線(Schwarze Front)』と改名される。 グレゴールはナチ党にとどまっていたが、オットーの謀反と離脱で党内で苦しい立場に立たされ、急速に影響力を弱めていった。
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