脱党声明、そして終焉
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1930年7月3日、オットーはもはやこれまでとヒトラーに最後通牒を送り、ヒトラーがこれを黙殺したのは言うまでもない。こうしてオットーを中心とした党内左派グループは1930年7月4日『ソーシャリスト、ナチ党を去る(Die Sozialisten verlassen die NSDAP.)』という声明文を出して党を去っていった。 彼らと心情を同じくするとはいえ、グレゴールをはじめ、一部のナチス左派の幹部は党内にとどまった。 読者、党同志、友人諸君!数ヶ月以来我々は深い懸念を抱きながら党の発展についていったが、党がますます頻繁にますます重要な問題において国民社会主義、ナツィオナール・ゾツィアリスムスの理念に反してゆく姿を我々は憂慮の念を募らせながら認めざるを得なかった。外交、内政、とりわけ経済政策の数多くの問題において、党は我々が唯一の綱領と目した25ヵ条とますます折り合いにくい態度をとってきた。党のブルジョワ化が増大してゆくという予感、原則に対して戦術的契機を優先させるという予感、かくて運動の自己目的と化し理念の綱領的要求よりも自己の利益を重んずる党機構の官僚化が急速に進んでいるという恐るべき認識がますます重大性をおびてきた。 「我々は国民社会主義を意識的に反帝国主義運動として理解し、そのナショナリズムは、多民族や他国に対するなんらかの支配的傾向を伴うことなくドイツ国民の生活及び発展の維持と確保に限られるものである。それ故我々にとっては、国際資本主義と西欧帝国主義によって行われたロシアに対する介入戦争の否定はドイツ外交政策の必要性からも我々の理念からも生まれる自明の要求であったし、現在もそうである。」「それ故我々は、ますます公然と介入戦争に与する党首脳部の態度を理念に反するものでありドイツ外交政策の要求からいっても有害なものであると感じた。」「我々にとって、イギリスの支配と資本主義の搾取から逃れる『インド独立闘争 indischen Unabhängigkeitskampf』に共鳴することは必要であったし、現在も必要であり、この必要は被抑圧民族が搾取的略奪者に対して行うすべての闘争に対する共感から生まれると同時に、ヴェルサイユの契約力を弱体化させることが全てドイツ解放政策に有利に働くという事実からも生まれる。」「我々のナショナリズム理念が必然的に導くところ、我々が自己の為に要求する民族独立性実現の権利はあらゆる多民族や他国民にも帰属する(この場合、「文化的施し」というようなリベラリズムの概念は我々の感知せぬところである)。 我々はそれ故、公然とイギリス帝国主義に与してインド独立闘争に反対する党首脳部の政治を国民社会主義の理念的前提ならびにドイツの実益に矛盾するものと感じたのである。」 (脱党声明文「ソーシャリスト、ナチ党を去る」より一部抜粋) 同年10月1日を以て闘争出版社は閉鎖された。
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