日光の板垣像建立
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戊辰戦争の時、板垣退助が日光東照宮を戦火から救ったことから、昭和3年(1928年)12月、日光町内に「板垣伯彰徳会」が設立された。設立趣意書には「今日、世界の日光たるを得しめたるは、維新当時の官軍の主将・板垣退助氏の敬虔なる態度と周到なる措置とに由来することを、我等は追慕の念慮と感謝の誠意とを以て永久に忘れることが出来ないのである。(中略)明治維新の後に於ける政党の領袖、民権の首導者として隠れなき板垣伯は、一面武将として、精神家として、亦、特に世界の名勝たる我が日光にかうした尊き事跡を残されてゐる。(中略)郷土、人士さへこの社廟保護と日光発展の上に、斯くの如き人傑の偉力が注がれてゐることを熟知する者は比較的少数であることを思ふと洵に遺憾に堪へぬ」と記され、板垣退助の銅像建設をも目標として、名誉会長に栃木県知事、会長は日光町長、評議員に輪王寺門跡、日光東照宮宮司、二荒山神社宮司、日光町助役、日光精銅所長ら16名が名を連ねた。発起人は、日光精銅所長・金子智で着々と準備が整い、翌昭和4年(1929年)12月8日、銅像除幕式を迎えた。開会の辞は建設会長・今井徳順、工事ならびに会計報告・金子智、銅像製作報告・本山白雲、式辞・望月圭介(旧自由党員代表)、除幕、板垣正貫、奏楽、祝辞・浜口総理大臣代理、同祝辞・頭山満(板垣退助門人代表、自由民権運動の直系後継者代表)、同・犬養毅、同・栃木県知事、同・民政党支部長、同・政友会支部長、同・日光町長、家族代表謝辞・宮地茂秋(退助・孫)の順に行われ、式後山内休憩所に於いて直会が開かれた。銅像の題字は、徳川嫡流宗家の徳川家達が揮毫を行った。
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