日光のザリガニ
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大正時代の1915年(大正4年)、京都で行われる予定であった大正天皇の即位儀礼である御大礼に伴う食事会「大饗」の際、『天皇の料理番』で知られる宮中料理人の秋山徳蔵が、フランス料理である「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」を供することを構想した。だが日本にはヨーロッパザリガニは生息しないため、秋山は北海道のニホンザリガニを使うことを考えた。現在、外来種として知られるアメリカザリガニやウチダザリガニの移入も昭和以降となるため、この時代に日本で採取できるザリガニは、本種以外に無かった。たまたま旭川の「師団長」(秋山の著書には氏名が明記されていないが、場所・時期からして、第七師団長宇都宮太郎陸軍中将であると思われる)が大饗の監督責任官すなわち秋山の上司である大膳頭福羽逸人の知人であったため、その協力を得て師団の兵士らを動員して、必要数を満たす支笏湖産の4000匹のザリガニを生きたまま確保する事が出来た。 4000匹のザリガニは8月に日光に運ばれ、日光御用邸付近の大谷川に生簀が作られて飼育された。当時大正天皇が避暑中で同地に滞在しており、秋山らも供奉で御用邸に滞在していたためと、日光の気候および清冽な水環境がニホンザリガニの飼育に適していると判断されたと推測できる。このうち2000匹が10月に京都に運ばれ、11月7日の御大礼の晩餐会にて使用された。詳しくは秋山の項目内の「大正天皇の御大礼とザリガニ騒動」を参照。 北海道庁が発行していた『北海殖民広報』に拠れば、翌年以降も複数回に渡って「日光」に支笏湖産のザリガニが送られており、また大沼産のものが「献上」された記録も残る。また、秋山が「ザリガニのポタージュ」を供したのはこれが初めてではなく、明治時代末の1910年にドイツ前全権大使をもてなす料理で既に提供されている。このため1910年には料理に使用できる鮮度、すなわち生きた状態で宮中に運ばれていたと推測される。 前出の4000匹の内、2000匹が京都で御大典の際に調理され、残る個体の内1000匹は、天皇が東京へ無事戻った際の晩餐で調理された。さらに残った1000匹が中禅寺湖に放たれた、と記録されている。また上述のように、その後も何度もザリガニが送られているが、その全てが調理されたわけではない、と推測することもできる。御用邸にはその後、調理場付近に「ザリガニ囲い」と呼ばれる施設が作られ、清涼な水が引かれた同施設内でザリガニは養育された。ここから個体が脱走、もしくは成体や卵が流出したことも考えられる。 ともあれ、現在の大谷川水系周辺にはニホンザリガニの生息が確認されている。しかし人工的な移入であるため、これもまた外来種という捉え方もできるが、一方で歴史的価値のある個体群であるとも捉えることができる。なにより種として「絶滅危惧種」であるため、日光周辺のニホンザリガニを一概に外来種として例えば駆除するなどの短絡早計な方策は、さすがに熟慮する必要がある。
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