事業再編の波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:10 UTC 版)
「中部電力 (1930-1937)」の記事における「事業再編の波」の解説
前述のように、岡崎電灯に先行して開業した愛知県内の電気事業者に名古屋電灯と豊橋電気(旧・豊橋電灯)が存在した。名古屋電灯は1889年(明治22年)に名古屋市にて開業した電力会社で。岐阜県に長良川発電所や木曽川八百津発電所を建設するなど順次その事業を拡大していく。一方の豊橋電気は1894年(明治27年)に県東部の豊橋市に開業した会社で、宝飯郡や渥美郡など豊橋周辺地域へ徐々に進出していった。同社は事業拡大の中で1916年(大正5年)に西遠電気という会社を合併し、静岡県浜名郡のうち浜名湖以西の地域(2010年以降の湖西市域に相当)を供給区域に含んだ点が特徴である。 1920年代に入ると、名古屋電灯は周辺事業者の合併を積極化し、愛知県や岐阜県の事業者6社を立て続けに合併した。そのうち1社が豊橋電気であり、1921年(大正10年)4月に合併が成立、豊橋電気は名古屋電灯豊橋営業所に姿を変えた。さらに名古屋電灯は1921年10月に奈良県の関西水力電気と合併して関西電気となる。この関西電気も引き続き合併路線を採り、1922年(大正10年)には九州地方の電力会社九州電灯鉄道を合併、資本金1億円超の大電力会社東邦電力株式会社へと発展した。この過程で東邦電力は天竜川に発電所を構える天竜川水力電気も合併し、静岡県下浜松方面における日本楽器製造(現・ヤマハ)や繊維会社などへの電力供給を引き継いでいる。この浜松周辺における事業も東邦電力豊橋営業所の管轄であった。 周辺地域における電気事業再編の結果、岡崎電灯の供給区域は東邦電力名古屋・豊橋両区域の間に挟まれる形となった。東邦電力側から見ると送電や経営の面でこの地域の整理は懸案であった。一方岡崎電灯側でも、一部の重役から孤立した状況に対して不満の声が上がっていた。1925年(大正14年)11月、東邦電力との合併を支持する岡崎電灯取締役中村慶助が、両社の間で合併仮契約の調印を済ませたと発表する。その内容は、合併に際して岡崎電灯の株主に対し持株1株につき東邦電力株式を1.3株の割合で交付する、というものである。しかし社長の杉浦銀蔵らは合併不可論を唱え、同社重役会議にて投票の結果反対多数で合併せずと決まった。 東邦電力は豊橋区域において、長篠発電所をはじめとする豊川の発電所(3か所、出力計2,050 kW)と他事業者の受電電力を電源として供給しており、名古屋区域とは別個の電力系統であった。両区域の連系が成立したのは、1925年に東京電力(旧・早川電力)への送電を目的として名古屋火力発電所(名古屋市)から浜松変電所へと至る浜松送電線(77kV送電線)が架設されたのち、1927年(昭和2年)8月にその途中に豊橋変電所が新設された際のことである。東邦電力では1927年にかけて、奈良区域と連系するなど余剰電力消化のため送電網を広域化していたが、愛知県内でも東邦電力名古屋・豊橋両区域と岡崎電灯区域の連系については、東邦電力側が電気の周波数を60ヘルツとしているのに対し岡崎電灯区域が50ヘルツに設定している、という技術的障壁があり困難であった。
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