電気製鋼所の設立
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明治後期から大正にかけて、愛知県名古屋市には名古屋電灯という電力会社が存在した(後の東邦電力)。同社は元々旧尾張藩士族の会社であったが、明治末期より東京の実業家福澤桃介が株式を大量に買収して進出し、1913年(大正2年)から常務、翌年からは社長として1921年(大正10年)までその経営にあたっていた。 名古屋電灯では明治末期に大規模水力開発を展開し、1910年(明治43年)に長良川にて出力4200キロワットの長良川発電所を、翌1911年(明治44年)には木曽川にて出力7500キロワットの八百津発電所をそれぞれ完成させた(双方とも岐阜県所在)。名古屋電灯では開業以来、需要に対して供給力の方が小さいという状態が続いていたが、この2つの大規模発電所の建設によって供給力に余剰が生じ、しばらく工場や電気鉄道といった大口需要の開拓に追われることとなった。こうした中、第一次世界大戦勃発直後の1914年(大正3年)10月、前年から名古屋電灯顧問を務め欧米視察から帰国したばかりの寒川恒貞に対し、福澤は余剰電力5,000キロワットの利用方法の研究を依頼した。これに対し寒川が将来性のある事業として電気による製鉄・製鋼事業を進言したことからただちに社内で同事業の企画が始まった。 事業化に関する試験費は5万円が支出され、試験場として竣工したばかりの熱田火力発電所(名古屋市熱田東町字丸山)の発電室の一角が割り当てられた。まず1915年(大正4年)2月、合金炉を製作してフェロアロイ(合金鉄)の試作に着手。試作の成功を機に同年10月社内に「製鋼部」を設置し、続いて1916年(大正5年)2月より600キロワット合金炉を製作しフェロシリコンの製造試験を始めた。3月にはエルー式アーク炉も完成し炭素鋼の試作を始め、これに成功すると続いて工具鋼の試作を行った。一連の試験で事業化の目処がついたため、発電所敷地にて工場建設に着手するとともに製鋼部の分社化準備を進めた。 1916年8月19日、製鋼部は名古屋電灯から独立し「株式会社電気製鋼所」が発足した。資本金は50万円(うち20万円払込)で、全1万株のうち半分を名古屋電灯が引き受け残りを関係者で引き受けた。初代社長には当時名古屋電灯常務の下出民義が就き、企画者の寒川恒貞は常務として経営の中心となった。本社は事業地ではなく東京市麹町区(現・東京都千代田区)に構えた。
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