電気製鉄の企画
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1901年(明治34年)に官営八幡製鉄所が操業を開始したことにより本格化した日本の鉄鋼業は日露戦争を期に発展をみせたが、民間製鉄所は釜石鉱山田中製鉄所など数か所、生産高は国内生産高の4分の1程度を占めるのみで、官営製鉄所主導であった。しかし1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、鋼材需要の激増に触発されて民間鉄鋼業も相次いで勃興し、1914年から1919年(大正8年)までの5年間に20近い民間製鉄所が操業を開始する。そして銑鉄の生産高は1913年(大正2年)の24万トンから1919年には3倍増の78万トンへと伸長し、同時に民間工場の生産高は国内生産高のうち64%を占めるまでになった。 鉄鋼業が伸長したこの時期、スウェーデン・ノルウェー・アメリカ合衆国など欧米において実用化されつつあった製鉄法(製銑法)が「電気製鉄」(電気製銑)であった。電気製鉄とは、鉄鉱石を還元して銑鉄を取り出す際に電気炉を用いる方法である。一般的に行われていた高炉(溶鉱炉)による製鉄法では、鉱石の加熱にコークスないし木炭を使用するが、電気製鉄ではこれを電力による加熱に代える。還元に必要な炭素を供給するため電気製鉄でもコークスないし木炭は必要であるが、加熱に使用しない分高炉法に比べて使用量を1/3に圧縮できる。他にも電気製鉄法は高炉法に比して、鉱石の大小を問わない、コークス・木炭の使用量が少ないため銑鉄中の不純物が少ない、操業が容易、建設費が最大1/2程度と安い、といったメリットがあった。ただ前提として電力が廉価である必要があった。この新規事業である電気製鉄を、名古屋電灯は1917年(大正6年)より日本で初めて導入する。 電気製鉄に先立って、名古屋電灯では電気炉によるフェロアロイ(合金鉄)の製造事業に取り組んでいた。明治末期に長良川・八百津両発電所を建設して抱えていた余剰電力のうち5,000キロワットの消化策としてフェロアロイ製造に乗り出し、社内に設置していた製鋼部を分離して1916年(大正5年)8月に株式会社電気製鋼所を設立していたのである。大戦を契機に鉄鋼業が発達するにつれてフェロアロイの需要も伸長、それに呼応して各地でフェロアロイメーカーの設立が相次ぐ最中であり、電気製鋼所は開業早々1割の配当をなすなど好業績を挙げるという滑り出しであった。 電気製鉄の実用化は電気製鋼所の好スタートに触発されたためでもあったが、木曽川の水利権問題も背景にあった。名古屋電灯が1916年に申請した木曽川筋4地点の水利権のうち、1917年3月3日付で許可されたのが賤母発電所(1万2,600キロワット)だけであったのは、この時点ではまだ他の3地点(大桑第一・大桑第二・読書、出力計5万8,300キロワット)の出力に見合う供給先を提示できていないためであった。当時の逓信省は水利権の転売を防ぐ目的で起業の確実性を確認した上で許可を出す方針としていたため、名古屋方面での需要に見合う賤母発電所のみ許可されたのである。余剰分については、名古屋電灯が1915年9月に木曽川全体の水力開発計画を立案した際には関西方面へと送電する予定で、実際に関西の電力会社大阪電灯・宇治川電気との間で電力需給契約の締結を目指していたが、交渉はまとまっていなかった。大阪送電計画が具体化しない中で、水利権獲得を目指す名古屋電灯が着目したのが電気製鉄であった。 名古屋電灯は顧問の寒川恒貞が電気製鉄の企画をまとめ、賤母発電所許可直後の1917年3月31日に早くも電気製鉄を盛り込んだ起業目論見書を逓信省に申請した。寒川によれば、折からの鉄鋼不足と国外での実用化が始まっていたことを踏まえての企画であったという。申請中の発電所3か所の出力5万8,300キロワットのうち4万キロワットを電気製鉄にあて、残りを賤母発電所とあわせて名古屋方面へ送電する、という構想であった。製鉄事業が推奨されていた時局柄、電気製鉄を事業目的に加えることで、1917年9月に残り3地点の水利権も獲得に成功した。
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