岐阜電気への改組
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開業以来の順調な需要拡大の結果、岐阜電灯は発電機5台・総出力130 kWという小規模火力発電所だけでは供給力の限界に達した。そこで水力発電への電源転換を試み、周辺の河川を調査した結果長良川に水利権を出願した。1906年(明治39年)のことで、出願は「岐阜電気」の名義であった。その一方、岐阜地方への電力供給の目的をもって、田中功平・近藤重三郎・大岡正らも揖斐川支流粕川の水利権を出願した。この3名は愛知県岡崎市の電力会社岡崎電灯(1897年開業)の創業者で、岡崎電灯での成功を機に近隣の三河電力や岐阜県中津川の中津電気など周辺地域の電気事業に参画しつつあった。 事業目的を同じくする出願が重なったことで県当局による審査が長期化すると予想されたため、話し合いの末に岐阜電気発起人側が岡崎側の発起人に粕川水利使用権として7000円を支払った上で粕川水利権を合同出願するという形に落ち着いた。1907年1月に粕川水利権の許可があり、1月25日付で新会社・岐阜電気株式会社が岐阜市に設立された。資本金は30万円。岐阜から岡本太右衛門・桑原善吉・箕浦宗吉の3名、名古屋から大岡正・山田鉄治郎(機械製造業)の2名が取締役に入った。岐阜電気では岐阜電灯の営業権および財産全部を払込資本金額3万7500円の2倍にあたる7万5000円で買収すると決定。2月6日付にて逓信省から事業譲受認可を得た。一方の岐阜電灯側は翌3月25日付で解散している。 新会社岐阜電気設立直後の1907年3月11日、岡本太右衛門が死去した。太右衛門家は長男の茂が相続して襲名(7代目岡本太右衛門)、家業を継いだほか、岐阜電気の後任社長にも就任した。以後、名古屋電灯との合併まで7代目岡本太右衛門が社長を務めることになる。 翌1908年(明治41年)12月、粕川最初の発電所として揖斐郡春日村(現・揖斐川町)に小宮神発電所が竣工した。新発電所の出力は300 kWで、15日より使用を開始し、反対に22日付で旧発電所を廃止している。水力発電転換に伴って供給成績は大幅に伸長しており、転換前の6月末時点では岐阜市内を中心とする605戸に電灯2775灯(市外の供給は稲葉郡加納町の1戸156灯)を取り付けていたが、これが水力発電転換後の12月末時点には需要家数2224戸・取付灯数6284灯となった。
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