名古屋電力と名古屋瓦斯
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「名古屋電灯」の記事における「名古屋電力と名古屋瓦斯」の解説
長良川発電所の建設が進むころ、木曽川では八百津発電所の建設工事が進んでいた。ただし事業者は名古屋電灯ではなく、新たに設立された名古屋電力株式会社という電力会社であった。 岐阜県加茂郡八百津町での発電所建設計画の歴史は1896年までさかのぼるが、実際に具体化するのは岐阜県選出の衆議院議員兼松煕が1903年に参画してからである。兼松は地元の意見をまとめるとともに東京の岩田作兵衛らを計画に引き入れ、さらに名古屋所業会議所会頭になっていた奥田正香の賛同も取り付けた。名古屋からは奥田の他に日本車輌製造の上遠野富之助、三重紡績の斎藤恒三、名古屋電気鉄道の白石半助などが発起人に加わっている。名古屋電灯代表の三浦恵民も兼松・奥田に招かれたためこの事業に加わって供給力を増強しようと考えたが、社内の意見が一致せず断念した。1906年10月、奥田・兼松らを発起人として名古屋電力が資本金500万円で設立される。社長に奥田が就き、事業の万全を期するために渋沢栄一・馬越恭平・雨宮敬次郎という大物実業家の3人が相談役に嘱託された。 こうして起業に漕ぎつけた名古屋電力であったが、会社設立後の不況で資金難となり、発電所の着工を1908年1月に遅らせざるを得なかった。従って東海電気に続いて名古屋電灯の競合会社となったのは、現実には名古屋電力ではなく、奥田正香がかかわるもう一つの事業名古屋瓦斯(名古屋ガス)であった。同社は名古屋電力に続いて1906年11月に設立、翌1907年10月には都市ガスの供給を開始した。当時のガスの用途は炊事などの熱用ではなく灯火用、すなわちガス灯が中心であり、またガスエンジンの利用もあって照明・動力の供給という意味では電力会社と競合する関係にあった。開業後の名古屋瓦斯は供給を急速に拡大し、開業3年目の1910年には名古屋電灯の電灯数7万6千灯に対し名古屋瓦斯の灯火用孔口数はその3分の1にあたる2万6千口に達した。その後名古屋瓦斯は1914年(大正3年)まで名古屋電灯の電灯数の伸びを上回るペースで灯火用の需要を伸ばしている。 電灯とガス灯の競合は、当時普及していた白熱電球である炭素線電球(発光部分のフィラメントに炭素繊維を用いる電球)に比してガス灯が価格・明るさ両面で有利であったことから生じたが、大正初期にタングステン電球(フィラメントにタングステンを用いる電球)が普及すると電灯が優位に立ち、さらに第一次世界大戦で石炭価格(当時の都市ガスは石炭ガス)が高騰してガス料金が引き上げられるとガス灯は競争力を失って衰退していった。
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