名古屋電力と名古屋瓦斯とは? わかりやすく解説

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名古屋電力と名古屋瓦斯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:23 UTC 版)

名古屋電灯」の記事における「名古屋電力と名古屋瓦斯」の解説

長良川発電所建設が進むころ、木曽川では八百津発電所建設工事進んでいた。ただし事業者名古屋電灯ではなく新たに設立され名古屋電力株式会社という電力会社であった岐阜県加茂郡八百津町での発電所建設計画歴史1896年までさかのぼるが、実際に具体化するのは岐阜県選出衆議院議員兼松煕1903年参画してからである。兼松地元意見をまとめるとともに東京岩田作兵衛らを計画引き入れ、さらに名古屋所業会議所会頭になっていた奥田正香賛同取り付けた名古屋からは奥田の他に日本車輌製造の上遠野富之助、三重紡績斎藤恒三名古屋電気鉄道白石半助などが発起人加わっている。名古屋電灯代表の三浦恵民兼松奥田招かれたためこの事業加わって供給力増強しようと考えたが、社内意見一致せず断念した1906年10月奥田兼松らを発起人として名古屋電力資本金500万円設立される社長に奥田就き事業万全を期するために渋沢栄一馬越恭平雨宮敬次郎という大物実業家の3人が相談役嘱託された。 こうして起業漕ぎつけた名古屋電力であったが、会社設立後不況資金難となり、発電所着工1908年1月遅らせざるを得なかった。従って東海電気続いて名古屋電灯競合会社となったのは、現実には名古屋電力ではなく奥田正香がかかわるもう一つ事業名古屋瓦斯名古屋ガスであった同社名古屋電力続いて1906年11月設立、翌1907年10月には都市ガス供給開始した当時ガス用途炊事などの熱用ではなく灯火用、すなわちガス灯中心であり、またガスエンジン利用もあって照明動力供給という意味では電力会社競合する関係にあった開業後の名古屋瓦斯供給急速に拡大し開業3年目1910年には名古屋電灯電灯数76千灯対し名古屋瓦斯灯火用孔口数その3分の1にあたる2万6千口に達したその後名古屋瓦斯1914年大正3年)まで名古屋電灯電灯数の伸び上回るペース灯火用の需要伸ばしている。 電灯ガス灯競合は、当時普及していた白熱電球である炭素線電球発光部分フィラメント炭素繊維用い電球)に比してガス灯価格明るさ両面で有利であったことから生じたが、大正初期タングステン電球フィラメントタングステン用い電球)が普及する電灯優位に立ち、さらに第一次世界大戦石炭価格当時都市ガス石炭ガス)が高騰してガス料金引き上げられるガス灯競争力失って衰退していった。

※この「名古屋電力と名古屋瓦斯」の解説は、「名古屋電灯」の解説の一部です。
「名古屋電力と名古屋瓦斯」を含む「名古屋電灯」の記事については、「名古屋電灯」の概要を参照ください。

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