関西電気による再編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
1921年3月31日、名古屋電灯は関西水力電気株式会社との間に合併契約を締結した。この関西水力電気は、1905年(明治38年)11月29日に設立され、奈良市にて営業していた奈良電灯(1894年5月設立)から事業を引き継ぐとともに水力開発を手がけ、1921年時点では資本金450万円の事業者であった。しかし第一次世界大戦の影響による需要増で経費の高騰を招き特に資金面で苦境に立っており、名古屋電灯との合併を選択したのである。 契約締結後、名古屋電灯・関西水力電気の両社はそれぞれ株主総会を開き(名古屋電灯は4月28日、関西水力電気は翌29日)、合併契約を承認した。名古屋電灯は資本金4848万7250万円、関西水力電気は450万円と10倍以上の開きがあったが、この合併では関西水力電気を存続会社として名古屋電灯は解散するという形がとられており、合併比率は3対4で、合併に伴い資本金を6914万9650円に増額するという条件であった。さらに関西水力電気は、名古屋電灯との合併が成立するまでの間に他の事業者との合併も相次いで取り纏め、5月愛知県半田の知多電気と、9月には天竜川開発を手がける天竜川水力電気および京都府の山城水力電気と、それぞれ合併契約を締結した。9月14日には関西水力電気・名古屋電灯の合併が逓信省に認可されている。 1921年10月18日、関西水力電気による名古屋電灯の吸収合併が実行に移され、関西水力電気は「関西電気株式会社」に社名を改めた。合併とともに関西電気の本社は奈良市から名古屋市の旧名古屋電灯本社に移転、役員は加納由兵衛が一人残留したのみでほかは旧名古屋電灯役員と入れ替わり、社長には福澤桃介、副社長には下出民義、常務には角田正喬・神谷卓男がそれぞれ就任した。このように形式的には関西水力電気による吸収合併であったが、実質的には名古屋電灯による関西水力電気の吸収合併である。新会社は、電灯供給約98万2千灯(うち旧名古屋電灯分は約87万4千灯)、電力供給約6万9千馬力(同約6万6千馬力)を行う電力会社となった。 1921年12月23日、関西電気最初の定時株主総会にて社長の福澤桃介は副社長の下出民義とともに辞任し、九州電灯鉄道社長の伊丹弥太郎、同社常務の松永安左エ門とそれぞれ交代した。突然の経営陣交代の理由は、名古屋市会における政争の責任をとったためと言われる(詳細は名古屋電灯#政争を参照)。このときすでにに関西電気と九州電灯鉄道の合併は内定しており、25日に合併契約が締結された。地理的に遠く離れた電力会社同士の合併ではあったが、会社の規模を拡大することで将来の発展のための事業資金の調達を容易にし、なおかつ大規模経営によって事業経費の軽減を図る意図からの合併であった。合併に際しての存続会社は関西電気で、1対1の合併比率により資本金を5000万円増額することとなった。翌1922年(大正11年)1月12日、両社の株主総会にて合併契約が承認された。 合併についてはまず1921年12月関西電気と知多電気の合併が成立し、翌1922年2月には天竜川水力電気の合併も成立。さらに3月から5月にかけて、前述の山城水力電気のほか、三重県北部の有力事業者北勢電気と愛知県の愛岐電気興業、愛知県津島の尾州電気、岐阜県の時水力電気・八幡水力電気の合併が認可され、最後に5月31日付で九州電灯鉄道の合併認可が下りた。山城水力電気以降の計7社は同年6月26日に一括して合併報告総会が開かれて合併手続きが完了している。加えて同日、名古屋市のガス事業者名古屋瓦斯も合併した。
※この「関西電気による再編」の解説は、「東邦電力」の解説の一部です。
「関西電気による再編」を含む「東邦電力」の記事については、「東邦電力」の概要を参照ください。
- 関西電気による再編のページへのリンク