相次ぐ危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:00 UTC 版)
しかしながら、バブル崩壊後の経済情勢は、地方競馬の開催成績を直撃した。1991年に9862億円でピークを迎えた地方競馬全体の売上は、2000年には5605億円まで激減する。巨額の累積赤字を積み上げた各地の主催者は一転して賞典費を始めとする経営コスト削減に回るが、それが馬資源の流出や厩舎関係者の士気低下を招くことで競走自体の魅力が乏しくなり、ますます開催成績が悪化するという悪循環に陥っていった。また、中央・地方併せて2001年には46競走まで拡大したダートグレード競走だが、その賞金水準の高さに比して売上額は芳しくなく、地方競馬にとってのカンフル剤とはならなかった。高崎競馬場や新潟公営などでは入場者数増加の振興策の一環として、日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所を場内で併設することが行われた。だがその結果として、目の前で行われている生の競走ではなく、僅かな手数料収入しか得られない中央競馬の中継映像へ多くの顧客が群がるという、悲劇的な光景も見られたという。 また、西日本を中心に専業の競馬場も存在するなど、長らく地方競馬の歴史を支えてきたアングロアラブ競馬だが、1995年の中央競馬における廃止に続いて、1980年代から在厩数の減少に悩んでいた南関東の競馬場がその廃止を決定する。交流元年後はサラブレッドによる相互交流の機運が高まったこともあって、アラブのメッカを誇った兵庫県競馬組合も1999年にサラブレッドの導入を発表。最終的に、2009年9月27日に福山競馬場で施行された「開設60周年 アラブ特別レジェンド賞」をもって、日本国内におけるアングロアラブ系単独競走は姿を消している。 そして2001年、大分県の中津競馬場が、21億円の累積赤字を理由に廃止されることが主催者の中津市より発表される。その後、中津競馬場では廃止に伴う競馬場関係者の補償金を巡って労働争議が紛糾するが、ともかくもこの中津を皮切りとして、全国的に競馬主催者の撤退が相次いでいった。翌2002年8月には日本一小さな競馬場として知られた島根県益田市の益田競馬場が廃止となり、2003年から2006年にかけて足利・高崎・宇都宮の北関東公営競馬が壊滅。東北地区では、2002年にすでに前年より三条競馬場での開催を中止していた新潟県競馬が完全に廃止され、翌2003年には作家山口瞳が愛したことで知られた上山競馬場からも競走馬が姿を消した。かつては地方競馬の優等生と謳われた岩手競馬すらも、開催成績の低迷に加えて、1996年に移転した新盛岡競馬場の建設費を巡る巨額の債務によって破綻的な経営状況へと陥り、2007年には一時廃止が確実視された。1989年より4市による北海道市営競馬組合として主催されてきたばんえい競馬についても、2006年に帯広市を除く構成地方公共団体が撤退し、単独の開催へ縮小することで辛くも存続している。 また、地方競馬から中央競馬の競走への遠征馬に騎乗する騎手は当日の他の競走にも騎乗できたことから、地方競馬の名手たちが中央競馬においてもその腕前を披露する機会を得ることになった。そして地方競馬の未来がかくも不安定な状況にあっては、一般的な注目度・金銭的な待遇ともに恵まれた中央競馬への移籍を望む騎手が現れることも自然な流れである。2001年、長らく笠松競馬場のリーディングジョッキーとして知られた安藤勝己が、中央競馬の騎手免許試験を受験することを発表した。この年こそ一次試験で不合格となったが、すでにその実力が中央競馬のファンにも知れ渡っていた安藤勝己が免許を取得できなかったことは各方面からの非難を呼んだ。そして翌2002年には通称アンカツルールと呼ばれた「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」の一次試験を免除する規定が設けられたこともあって、見事に合格。地方競馬全国協会は騎手免許の中央・地方重複所有を監督官庁である農林水産省へ要請したが認められず、2003年3月より安藤勝己は中央競馬所属騎手として再出発を果たした。以後も各地区のリーディング級騎手による中央競馬騎手免許試験の受験が相次ぎ、また地方競馬内でも比較的余裕のある競馬場への移籍を望む事例がみられるようになった。
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