相次ぐ出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:29 UTC 版)
大学成敗の際、板浪長常の養子で種重の伯父である板浪帯刀は身の危険を感じて佐土原へ出奔していたが、妻子を連れてこようと高鍋へ戻りかけた際に、これを知った種重により木脇(現・国富町)の六野原にて襲撃される。帯刀は薙刀を振るい奮戦するも殺害された。 同じく身の危険を感じたか、翌寛永4年(1627年)9月に種重の従兄で家老の内田頼母(種重の伯父・内田仁右衛門の子)、10月に秋月蔵人が藩より脱出し、佐土原藩へ仲裁を頼んだ。「今回の一件は坂田大学の仕業であり蔵人の感知するところではない」として和解に至ったものの、蔵人はその後、江戸へ上がる途中で唐津へ亡命し浪人となった(後に島原の乱で功を上げ、紀州藩に仕える)。頼母も晩年を長崎で過ごした。以降、種重に抗えるものなく良くも悪くも平穏であったが、寛永20年(1643年)3月に蔵人次男の武藤右兵衛が、同年5月9日に家老・入江主水の子である入江三左衛門が、その3日後に蔵人長男(娘婿とも)の秋月太郎左衛門がそれぞれ出奔している。 また、大学の一族同類 530人も逃亡し、うち殺害された者が多いとされる。
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