相次ぐ供述による事件発覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 18:11 UTC 版)
「山岳ベース事件」の記事における「相次ぐ供述による事件発覚」の解説
2月19日、永田は旧知の弁護士に対し、「山で大変な闘争があったが、誰にも話してはいけないことで、弁護士にも話せない」とした上で、森が話してしまわないかを心配して「森さんにあのことは言ってはいけない、と伝えてほしい」と依頼。これを弁護士から聞いた森は黙っていたという。 3月5日、妙義ベースで発見されたAの衣服の写真を警察の取調べで見せられたjがAの殺害を供述。翌3月6日には加藤倫教・i も事件を供述。3月8日、森が「遺体を遺族に返すため」として前橋地方裁判所に事件の全容を書いた「上申書」を提出。森としてはこれは裁判所に提出したものであるため、「自供」には当たらないと考えていたようであったが、他メンバーの多くにとっては「黙秘」を厳命していたはずの森による「全面自供」に他ならなかった。永田は後に自著で「いかなる自供も許さなかった『共産主義化』に反することであった(中略)その確信の何かがその上申書を見てすぐガラガラと崩れる落ちるように感じ」たと記し、坂口は「権力に対する森君の屈服とみなし、総括を主導した人物の重大な裏切りとみなした」と記している。何より、森は死亡したメンバーの埋葬に一度も立ち会っておらず遺体の場所を一切知らないため、最高指導者である森の意向に合わせて「遺体を遺族に返す」には他メンバーの自供が必要であり、森の「上申書」は他メンバーの「自供」を促す性質すら持っていた。これにより、植垣・aら他メンバーの自供が相次ぎ、妙義山、迦葉山、榛名山麓で計12人の遺体が発見され、事件の全貌が明らかになった。こうした相次ぐ自供に森は困惑した。事件が明るみに出る過程で、脱走していたb・d・e・hも相次いで出頭・逮捕され、これにより生存メンバー17人全員が警察に逮捕された。警察当局により遺体の捜索及び発見現場がメディアに公開され、一部メディアにより性別もわからないほどやせ細った遺体の写真も公開された。僅か2ヶ月足らずの間に同じグループ内で12人も殺害した凄惨極まりない事件は、社会に大きな衝撃を与えた。さらに事件の全容を一部のメンバーしか知らなかった合流前の革命左派メンバーによる同志粛清事件である印旛沼事件も吉野らの供述により明らかになり、2人の遺体が発見された。 黙秘を続けていた永田・坂口・坂東も4月以降、相次いで自供を始めた。永田の自供は「同志殺害は精神異常者の犯行でなく、革命の問題だという主張をするために統一公判を要求しないと」という検察官の論理に乗せられ、統一公判要求の供述書を書いたことがきっかけであった。最後まで黙秘を続けていた坂口もHと胎児が横たわった遺体の写真を見せられたことにより、「黙秘を維持できなく」なり、「検事の取り調べに屈服」する形で供述書の執筆は拒否したものの「手記」を執筆した。 あさま山荘事件終結後も、日本社会党の議員や左派系マスメディアの中には、連合赤軍を擁護する主張・言動を続けていた者が少なからず見られた。しかし、あさま山荘事件とその直後に発覚した山岳ベース事件の真相と連合赤軍の実態が明らかにされるにつれて、連合赤軍を擁護した者たちの面目と社会的信用は丸つぶれとなった。かくて、左派として行動・主張してきた者たちもことごとく一斉に手の平を返し、連合赤軍を批判する側へと回っていった。 日本国内では、これまで新左翼運動を否定的に見ていた人間はもちろん、新左翼運動を好意的に見ていた人間も、この事件によって新左翼(極左)を嫌悪するようになっていった。それまで世論の一部に存在していた連合赤軍に同調する動きもまた、一気に冷却・縮小していった。
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