相次ぐ借上施行者の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)
日本経済は1991年(平成3年)頃からバブル景気が下降線をたどり、長い不況に突入する。この影響を受け、競輪の売上も1991年度を境に下降線をたどり、その後2014年度まで対前年度比で漸減を続けた。 この影響を真っ先に受けたのが、普通開催(現在のFIIに相当)であった。普通開催については当時、競輪の主催権を持つ自治体以外に、特定の開催だけ主催権が与えられた「借上施行者」と呼ばれる自治体の主催が少なくなかったが、1992年以降は売上が急速に落ち込み赤字に転落する自治体が急増し、ひいては自治体の財政運営にも悪影響を及ぼすとして、これらの借上施行者は相次いで撤退していった。このことは主催権を持つ自治体にも過重な負担を強いることとなり、1990年代の終盤には各施行自治体が売上が見込める記念競輪の広域場外発売拡大や、S級シリーズの開催数増加を要求する流れとなっていった。 しかし、S級の選手数はKPK導入時のまま(概ね430名)に据え置かれており、急増するあっせんをこなせず体調不良から直前欠場するS級選手が急増し、ひいてはKPK制度そのものが破綻寸前の状態となっていた。そこで1999年初頭に関係5団体はグレード制の導入やB級の廃止、S級選手の大幅増加に伴うS級シリーズの開催数増加、場外発売を拡大するため記念開催を1節4日間制とする新番組制度改革の概要を公表した。 しかし、片折体制下が続く日本競輪選手会はB級廃止に難色を示し、当初は上記の番組改革に消極的な姿勢を取っていたが、片折が2000年に没して方針が転換され、改革案を受け入れた。その後、KPKに代わる新番組制度は2002年4月1日から本格的にスタートした。 1995年には他の開催と同様、特別競輪での失格選手も、即日帰郷となった。 1999年4月1日には全レースで枠番連勝複式と車番連勝単式の2賭式の発売方式(本場では単勝式・複勝式もあった)へ完全移行したが、2001年9月30日の立川・前橋から新賭式(計7賭式)を順次導入(2003年10月の松阪で全場完了)。同年度には「全日本選抜競輪」が読売新聞社杯に「競輪祭」が朝日新聞社杯にもなった。2002年4月にはユニフォームも9色に変更され、インターネット投票システムも運用開始された。2000年には競輪場内での酒類販売の試験導入もあった。 そんな中、競輪場の廃止論が21世紀に入って再燃もしていた。
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