相次ぐ家督相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:18 UTC 版)
文明18年(1486年)7月、出雲に下向していた政経が子の材宗と共に上洛すると、8月に高清の家臣・多賀宗直が政経父子と反乱を起こした為、高清は甲賀郡へ逃れたが、10月に江北に戻り宗直を破った。宗直は美濃へ逃れ、翌長享元年(1487年)に再起を図って江北へ戻ったが、5月に高清に敗れて自害した。 同年9月、9代将軍・足利義尚は幕府の威信回復を目指し自ら六角高頼へ征伐を行う(長享・延徳の乱)。高清は義尚に従軍したが、六角征伐の最中の長享2年(1488年)8月に政経が挙兵し、近江松尾(伊香郡)で衝突、政経・多賀経家らは敗れて伊勢梅津へ敗走した。しかし翌2年(1489年)に政経は近江国人衆の協力を得て高清を追放、高清は美濃の実力者斎藤妙純を頼り、越前敦賀、坂本へ逃れる。延徳2年(1490年)8月に政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、合わせて高清退治も命じられた。 しかし、政経が配下の所領横領を阻止出来なかった事が10代将軍・足利義材(義尚の従弟)の怒りを買い失脚、代わりに高清が明応元年(1492年)12月に家督を認められ、翌年9月に高清は北近江に復帰する。一方の政経は出雲の守護代尼子経久を頼り下向、近江に残った材宗は抗戦を継続した。しかし、明応5年(1496年)に庇護を受けていた斎藤妙純が六角高頼に敗れて戦死すると高清も没落、美濃海津に寄留する。
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