相次ぐ子どもの夭折と妻の死とは? わかりやすく解説

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相次ぐ子どもの夭折と妻の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)

小林一茶」の記事における「相次ぐ子どもの夭折と妻の死」の解説

文化13年4月14日1815年5月10日)、妻、長男太郎出産する。しかし千太郎生後わずか28日亡くなってしまった。あっという間に亡くなってしまったこともあってか、一茶は千太郎死に関して大きなショック受けた形跡はない。しかしは3男1女を儲けるも、皆、満2歳迎えことなく夭折する遺産問題解決結婚によって一茶の生活にかつてのような緊張感無くなり一茶俳句もやや弛緩しかけていたが、この相次ぐ子どもの夭折代表される家庭的不幸は、結果として一茶作品最後まで張り持たせ続けることに繋がった一茶長男、千太郎失った後の8月には、七番日記に妻、との性交渉の数をしばしば記録している。これは若い妻と結婚した一茶のあせりのようなものの現れではないかとの意見や、子ども欲しさよるものではないかとの説もあるが、あるがまま表現重んじた一茶らしいエピソードとも言えるいずれにしても日記記され赤裸々性生活記事の内容からは、一茶精力絶倫であった考えられている。 文政元年5月4日1818年6月7日)、妻、女の子生む女の子は「賢くなれ」との願い込め、さとと名付けられた。愛児さとの生と死主題とした俳文おらが春」は、一茶渾身のといってよい内容であり、文字通り代表作とされている。 さとは最初のうちはすくすく成長するおらが春ではあどけないさとの姿と、目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、そして母のおっぱいをあげる姿を丹念に描写し(のみ)の跡かぞへながらも添乳かな 愛児さとが食われた跡を数えつつお乳をあげている、子をいつくしむ母の姿を詠んだ。 ところがまもなく運命暗転する文政2年1819年5月末、さとは天然痘感染する天然痘自体6月入ってかさぶた落ち小康状態になったかに見えたが、体調一向に回復せず、治療尽くしたにも関わらず6月21日1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶おらが春愛しいわが子を失ったとしての嘆き綴った上で露の世露の世ながらさりながら と、愛児さとを失った無念あきらめきれない悲しみ詠んだ。 そしてこの年の夏、 せみなくやつくづく赤い風車 と、蝉しぐれの中、主を失いむなしく回り続け赤い風車詠んだ文政3年10月5日1820年11月10日)、妻の次男太郎生む。石太郎という名は石のように強く長生きして欲しいとの願い込めて付けたであった。ところが次男誕生喜び浸る間も無く一茶の身に不幸が襲う。10月16日1820年11月21日)、外出中に雪道転倒した一茶中風起こし駕籠自宅担ぎ込まれた。一時言語障害運動障害併発し生まれたばかりのわが子とともに自宅臥床する状態に陥った。幸いこのときの中風比較軽く症状ある程度改善して認知的問題は起こらなかった。しかし歩行の不自由さ残ってしまった。 文政4年1月11日1821年2月13日)、一茶に再び不幸が襲う。生まれて100日経ていない太郎が、母、背中窒息死してしまうという事故が起きた愛児事故死受けて一茶は妻のことを激しく罵る文章残している。確かに太郎事故死過失ではあるが、実は石太郎生まれながら虚弱体質だったのではとの推測もされている。 陽炎や目につきまとふわらひ顔 は、一茶が石太郎の死を悼み詠んだ句である。 文政4年もおしつまった12月29日1822年1月21日)、一茶一通嘆願書本陣中村左衛門利賓に提出した嘆願内容は、柏原宿伝馬屋敷住民たちの義務とされた伝馬役に関するものであった伝馬屋敷に住む者は、前述のように地子免除の特典受けられる代わりに伝馬役務め課せられていた。一茶時代になると一般的には伝馬役役儀ではなく伝馬役金を納めるになっていた。一茶享和元年1801年)の父の死後、きちんと伝馬役金を納め続けていた。 一茶嘆願は、自らに課せられた伝馬役金の免除願い出てその分小林家本家弥市に払わせて欲しいという内容であった弥市伝馬役金を納めていないのにも関わらず祭りの際には桟敷席座り散財をしているとして、桟敷に座ることが出来ない自分役金納め続けているのは不合理であると申し立て、更に中風で体も不自由となり、外出時には駕籠代が嵩み、その上子どもの誕生死去重なったこともあって生活に困っていると訴えた実際問題として弥市伝馬役金を納めていなかったとは考えにくく、一茶遺産問題で弟、仙六側についた本家弥市のことを根に持っていたことがこの嘆願書出され原因のひとつと考えられている。また嘆願書中に記されているように、柏原では鎮守諏訪社祭礼時に桟敷設けられたが、有力者桟敷上がって祭礼見物しその他一般見物客立ち見であった弥市桟敷席であり、また遺産分割後も新たな資産獲得努めていた弟、仙六も桟敷に座るようになっていた。一茶弥市、仙六が桟敷席であるのにも関わらず自分立ち見であることに劣等感募らせていた。嘆願書には本家や弟の後塵拝し不遇な己を嘆く卑屈心象垣間見える過失があったのは事実であるとしても、妻を激しく罵倒する文章書いたり、自らの困窮理由伝馬役金の免除願い出る嘆願書に、本家弥市引き合い出して中傷するような内容を記すなど、一茶には利己主義的な面が強く、また激情駆られる抑えが効かなくなることがあるのは否めない前述のように柏原宿存亡賭けた訴訟時に一茶本陣中村左衛門利賓らに協力をしており、仲も良かった。そのためある意味気軽に書いてしまったという一面もあるものの、やはり弥市貶めんとし、卑屈さが感じられる内容嘆願書評判悪く一茶人物評価にマイナスとなった。 弟との遺産問題解決し、妻も迎え俳諧結社師匠として北信濃各地門人持ち故郷安住したかに見えた一茶であったが、故郷受け入れられたという思いを抱くことは無かった故郷まで人を刺しにけり ふるさとではまでも人のことを刺すと、被害者意識丸出し故郷冷たさを憎む句を詠んでいる。 この頃一茶生活実態はどうだったのかというと裕福とは言えないまでも多少余裕があった生活だったと考えられる一茶自分田畑から挙げられる収穫の他に、俳諧師匠として北信濃一帯巡回して得る収入があった。当時俳諧師匠として得られる収入多額ではなく一財作るほどにはならなかったものの、文政5年1822年正月には一日平均5合あまりと酒をかなり消費した記録残っている。これは一茶宅に来客多かったことも関係していると見られている。更に文政3年1820年)から8年1825年)にかけて6口の無尽加入したことが確認されており、一茶没する文政10年1827年)までに約14両の支出行っている。14両は少額とは言えない。また一茶所有している田畑亡くなるまでほとんど増減が無い。これは少なくとも土地を手放さなければならないほどの困窮状態には陥らなかったことを示している。 文政5年一茶60歳となった60歳超えた一茶作品には、旧作同工異曲なものや、安易な作が目立つようになってきた。しかしこの年の暮に執筆した俳文、「田中河原の記」は、軽妙な文体中にも北信濃風情、そして貧し人々対す暖かい眼差し感じられるすぐれた文章で一茶文学的な実力自体まだまだ健在であった文政5年3月10日1822年5月1日)、妻、三男生んだ次男太郎亡くした父、一茶生まれた子に石よりも硬くて丈夫であるとして、金を名に冠した金三郎(こんざぶろう)と名付けた出産後、妻の体調崩した産後の肥立ち良くなかったのであるその後体調本調子はならず病気がち日々続いた文政6年1823年正月還暦迎えた一茶春立や愚の上に又愚に帰る と、これまでの自らの人生愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくのだと詠んだ。この句は一茶深く信仰していた浄土真宗教え密接な関わり合いがある。一茶様々な欲にまみれ、利己主義的激情抑え効かないといった大きな欠点抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業直視する目も持っていた。愚に生きること告白ともいえる句は、自らを愚禿称した宗祖親鸞唱えた、「悲しいときは泣き嬉しいときは喜び、そして苦しいときは苦しんで生きられる絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている。 2月19日1823年3月31日)、妻のが病に倒れた病名痛風であった伝えられている。病状一時改善するものの、3月に入ると悪化し医師診察受けたり様々な飲んでみたにも関わらず病状悪化していった。病状悪化すると、俳諧師として門人回り欠かすことが出来ない一茶では子どもの世話を行うことがままならないため、やむを得ず知人宅に預けることにした。そして妻の実家帰って療養することになった一茶は夫としてしばしば妻の見舞い行ったが、病状悪化するばかりで結局5月12日1823年6月20日)、37歳亡くなった。 妻を失った後、一茶は、 小言いふ相手もあらばけふの月 と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った。 ところで没後葬儀の際に息子金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ骨と皮ばかりで息も絶え絶え様子である。一茶知人が乳が出ないにも関わらず保育料欲しさ金三郎を預かったとして、例によって知人のことを人面獣心断罪するなど口を極めて罵った俳文を書く。これもさすがに乳を飲ませなかったとは考えにくく、金三自身虚弱であったのではと考えられる結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改め別の乳母預けることにした。金三郎は一時容体取り戻したものの、結局12月21日1824年1月21日)に亡くなってしまった。文政6年一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになってしまった。 との間に生まれた一茶の子どもたちが皆、2歳迎えことなく夭折したのは、一茶が持つ病気影響があったのではとの説がある。妻の若死についてもあるいは一茶病気原因があるのではと言われている。 妻と子亡くし一茶文政7年1824年)の正月たった一人迎えた。 もともとの一人前いちにんまえ)ぞ雑煮膳 正月一人前雑煮前に妻と子亡くした淋しさの中で、思い返せば江戸生活はずっと一人であったわけで、もともとの独り者戻ったにすぎないというあきらめの境地詠んだ

※この「相次ぐ子どもの夭折と妻の死」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「相次ぐ子どもの夭折と妻の死」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。

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