相次ぐ子どもの夭折と妻の死
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「小林一茶」の記事における「相次ぐ子どもの夭折と妻の死」の解説
文化13年4月14日(1815年5月10日)、妻、菊は長男千太郎を出産する。しかし千太郎は生後わずか28日で亡くなってしまった。あっという間に亡くなってしまったこともあってか、一茶は千太郎の死に関しては大きなショックを受けた形跡はない。しかし菊は3男1女を儲けるも、皆、満2歳を迎えることなく夭折する。遺産問題の解決、結婚によって一茶の生活にかつてのような緊張感が無くなり、一茶の俳句もやや弛緩しかけていたが、この相次ぐ子どもの夭折に代表される家庭的不幸は、結果として一茶の作品に最後まで張りを持たせ続けることに繋がった。 一茶は長男、千太郎を失った後の8月には、七番日記に妻、菊との性交渉の数をしばしば記録している。これは若い妻と結婚した一茶のあせりのようなものの現れではないかとの意見や、子ども欲しさによるものではないかとの説もあるが、あるがままの表現を重んじた一茶らしいエピソードとも言える。いずれにしても日記に記された赤裸々な性生活の記事の内容からは、一茶は精力絶倫であったと考えられている。 文政元年5月4日(1818年6月7日)、妻、菊は女の子を生む。女の子は「賢くなれ」との願いを込め、さとと名付けられた。愛児さとの生と死を主題とした俳文「おらが春」は、一茶渾身の作といってよい内容であり、文字通り代表作とされている。 さとは最初のうちはすくすくと成長する。おらが春ではあどけないさとの姿と、目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、そして母の菊がおっぱいをあげる姿を丹念に描写し、 蚤(のみ)の跡かぞへながらも添乳かな 愛児さとが蚤に食われた跡を数えつつお乳をあげている、子をいつくしむ母の姿を詠んだ。 ところがまもなく運命は暗転する。文政2年(1819年)5月末、さとは天然痘に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち、小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにも関わらず6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶はおらが春に愛しいわが子を失った親としての嘆きを綴った上で、 露の世は露の世ながらさりながら と、愛児さとを失った無念、あきらめきれない悲しみを詠んだ。 そしてこの年の夏、 せみなくやつくづく赤い風車 と、蝉しぐれの中、主を失い、むなしく回り続ける赤い風車を詠んだ。 文政3年10月5日(1820年11月10日)、妻の菊は次男石太郎を生む。石太郎という名は石のように強く長生きして欲しいとの願いを込めて付けた名であった。ところが次男誕生の喜びに浸る間も無く、一茶の身に不幸が襲う。10月16日(1820年11月21日)、外出中に雪道で転倒した一茶は中風を起こし、駕籠で自宅に担ぎ込まれた。一時は言語障害と運動障害を併発し、生まれたばかりのわが子とともに自宅で臥床する状態に陥った。幸いこのときの中風は比較的軽く、症状もある程度改善して認知的な問題は起こらなかった。しかし歩行の不自由さは残ってしまった。 文政4年1月11日(1821年2月13日)、一茶に再び不幸が襲う。生まれて100日経っていない石太郎が、母、菊の背中で窒息死してしまうという事故が起きた。愛児の事故死を受けて一茶は妻のことを激しく罵る文章を残している。確かに石太郎の事故死は菊の過失ではあるが、実は石太郎は生まれながらの虚弱体質だったのではとの推測もされている。 陽炎や目につきまとふわらひ顔 は、一茶が石太郎の死を悼み、詠んだ句である。 文政4年もおしつまった12月29日(1822年1月21日)、一茶は一通の嘆願書を本陣の中村六左衛門利賓に提出した。嘆願の内容は、柏原宿の伝馬屋敷の住民たちの義務とされた伝馬役金に関するものであった。伝馬屋敷に住む者は、前述のように地子免除の特典を受けられる代わりに伝馬役の務めが課せられていた。一茶の時代になると一般的には伝馬役の役儀ではなく伝馬役金を納める形になっていた。一茶も享和元年(1801年)の父の死後、きちんと伝馬役金を納め続けていた。 一茶の嘆願は、自らに課せられた伝馬役金の免除を願い出て、その分を小林家本家の弥市に払わせて欲しいという内容であった。弥市は伝馬役金を納めていないのにも関わらず、祭りの際には桟敷席に座り散財をしているとして、桟敷に座ることが出来ない自分が役金を納め続けているのは不合理であると申し立て、更に中風で体も不自由となり、外出時には駕籠代が嵩み、その上子どもの誕生、死去が重なったこともあって生活に困っていると訴えた。 実際問題として弥市が伝馬役金を納めていなかったとは考えにくく、一茶は遺産問題で弟、仙六側についた本家の弥市のことを根に持っていたことがこの嘆願書が出された原因のひとつと考えられている。また嘆願書の中に記されているように、柏原では鎮守の諏訪社の祭礼時に桟敷が設けられたが、有力者は桟敷に上がって祭礼を見物し、その他一般の見物客は立ち見であった。弥市は桟敷席であり、また遺産分割後も新たな資産獲得に努めていた弟、仙六も桟敷に座るようになっていた。一茶は弥市、仙六が桟敷席であるのにも関わらず、自分が立ち見であることに劣等感を募らせていた。嘆願書には本家や弟の後塵を拝し、不遇な己を嘆く卑屈な心象も垣間見える。 過失があったのは事実であるとしても、妻を激しく罵倒する文章を書いたり、自らの困窮を理由に伝馬役金の免除を願い出る嘆願書に、本家の弥市を引き合いに出して中傷するような内容を記すなど、一茶には利己主義的な面が強く、また激情に駆られると抑えが効かなくなることがあるのは否めない。前述のように柏原宿の存亡を賭けた訴訟時に一茶は本陣の中村六左衛門利賓らに協力をしており、仲も良かった。そのためある意味気軽に書いてしまったという一面もあるものの、やはり弥市を貶めんとし、卑屈さが感じられる内容の嘆願書は評判が悪く、一茶の人物評価にマイナスとなった。 弟との遺産問題を解決し、妻も迎え、俳諧結社の師匠として北信濃各地に門人を持ち、故郷に安住したかに見えた一茶であったが、故郷に受け入れられたという思いを抱くことは無かった。 故郷は蠅まで人を刺しにけり ふるさとでは蠅までも人のことを刺すと、被害者意識丸出して故郷の冷たさを憎む句を詠んでいる。 この頃の一茶の生活実態はどうだったのかというと、裕福とは言えないまでも多少は余裕があった生活だったと考えられる。一茶は自分の田畑から挙げられる収穫の他に、俳諧師匠として北信濃一帯を巡回して得る収入があった。当時、俳諧師匠として得られる収入は多額ではなく、一財産作るほどにはならなかったものの、文政5年(1822年)正月には一日平均5合あまりと酒をかなり消費した記録が残っている。これは一茶宅に来客が多かったことも関係していると見られている。更に文政3年(1820年)から8年(1825年)にかけて6口の無尽に加入したことが確認されており、一茶が没する文政10年(1827年)までに約14両の支出を行っている。14両は少額とは言えない。また一茶の所有している田畑は亡くなるまでほとんど増減が無い。これは少なくとも土地を手放さなければならないほどの困窮状態には陥らなかったことを示している。 文政5年、一茶は60歳となった。60歳を超えた一茶の作品には、旧作と同工異曲なものや、安易な作が目立つようになってきた。しかしこの年の暮に執筆した俳文、「田中河原の記」は、軽妙な文体の中にも北信濃の風情、そして貧しい人々に対する暖かい眼差しが感じられるすぐれた文章で、一茶の文学的な実力自体はまだまだ健在であった。 文政5年3月10日(1822年5月1日)、妻、菊は三男を生んだ。次男石太郎を亡くした父、一茶は生まれた子に石よりも硬くて丈夫であるとして、金を名に冠した金三郎(こんざぶろう)と名付けた。出産後、妻の菊が体調を崩した、産後の肥立ちが良くなかったのである。その後も菊の体調は本調子にはならず、病気がちな日々が続いた。 文政6年(1823年)正月、還暦を迎えた一茶は 春立や愚の上に又愚に帰る と、これまでの自らの人生を愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくのだと詠んだ。この句は一茶が深く信仰していた浄土真宗の教えに密接な関わり合いがある。一茶は様々な欲にまみれ、利己主義的で激情の抑えが効かないといった大きな欠点を抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業を直視する目も持っていた。愚に生きることの告白ともいえる句は、自らを愚禿と称した宗祖親鸞が唱えた、「悲しいときは泣き、嬉しいときは喜び、そして苦しいときは苦しんで生きられる、絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている。 2月19日(1823年3月31日)、妻の菊が病に倒れた。病名は痛風であったと伝えられている。病状は一時改善するものの、3月に入ると悪化し、医師の診察を受けたり様々な薬を飲んでみたにも関わらず、病状は悪化していった。菊の病状が悪化すると、俳諧師として門人宅回りを欠かすことが出来ない一茶では子どもの世話を行うことがままならないため、やむを得ず知人宅に預けることにした。そして妻の菊も実家に帰って療養することになった。一茶は夫としてしばしば妻の見舞いに行ったが、病状は悪化するばかりで結局5月12日(1823年6月20日)、37歳で亡くなった。 妻を失った後、一茶は、 小言いふ相手もあらばけふの月 と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った。 ところで菊の没後、葬儀の際に息子、金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ、骨と皮ばかりで息も絶え絶えの様子である。一茶は知人が乳が出ないのにも関わらず保育料欲しさに金三郎を預かったとして、例によって知人のことを人面獣心と断罪するなど口を極めて罵った俳文を書く。これもさすがに乳を飲ませなかったとは考えにくく、金三郎自身が虚弱であったのではと考えられる。 結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改めて別の乳母に預けることにした。金三郎は一時容体を取り戻したものの、結局12月21日(1824年1月21日)に亡くなってしまった。文政6年、一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになってしまった。 菊との間に生まれた一茶の子どもたちが皆、2歳を迎えることなく夭折したのは、一茶が持つ病気の影響があったのではとの説がある。妻の若死についてもあるいは一茶の病気に原因があるのではと言われている。 妻と子を亡くし、一茶は文政7年(1824年)の正月をたった一人で迎えた。 もともとの一人前(いちにんまえ)ぞ雑煮膳 正月、一人前の雑煮を前に、妻と子を亡くした淋しさの中で、思い返せば江戸生活はずっと一人であったわけで、もともとの独り者に戻ったにすぎないというあきらめの境地を詠んだ。
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