武蔵水電 / 西武鉄道(旧)
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「西武大宮線」の記事における「武蔵水電 / 西武鉄道(旧)」の解説
電灯電力事業はかなりの収益を上げ、1909年(明治42年)、出力900kWの水力発電所を秩父郡矢納村の神流川水系に建設して、営業地域を埼玉県秩父地区や比企地区、群馬県南部へも拡張することを計画した。この計画は、浅野総一郎ら資本家を加えた別会社で事業展開することになり、1913年(大正2年)、資本金70万円で神流川水力電気が設立され、同年に社名を武蔵水電と改称した。同年7月に川越電気鉄道から50kWを受電して武蔵水電は開業し、水力発電所の完成を受けて翌年12月に川越電気鉄道と武蔵水電は合併し、社名は武蔵水電を引き継いだ。武蔵水電は1920年(大正9年)6月に川越鉄道(現在の西武新宿線と国分寺線)を、翌年10月に西武軌道(後の都電杉並線)を相次いで吸収合併し3つの営業鉄軌道を所有する会社となった。1922年(大正11年)6月、武蔵水電の電灯電力事業は帝国電灯に合併されるが、鉄軌道事業は新設会社の武蔵鉄道に譲渡されることになった。武蔵鉄道は事業譲受の直後に西武鉄道(旧)に改称した。帝国電灯の電灯電力事業は現在では東京電力に統合されている。また、前述の相次ぐ合併の中で川越東線と改称していた当線は、西武鉄道(旧)成立の頃に大宮線と改称した。 最初の路線の開業の直前に社名を川越馬車鉄道から川越電気鉄道に変更していることからわかるように、馬車鉄道ではなく電気軌道(路面電車)で開業を果たした。電気鉄道の軌間に1372mmの馬車軌が採用されたのは東京市電に倣ったためだとされている。そのため車両は東京市電から払い下げられた車両を使用した。周囲の住民からは「チンチン電車」の愛称で呼ばれていた。 西武鉄道大宮線に改名した大正末期時点で路線の老朽化が指摘されており、地元からは近代化の要望が出されたが、政府の荒川河川改修延期が妨げとなって近代化の目途はまったく立たなかった。そこで地元は1927年(昭和2年)に国有鉄道敷設期成同盟会を結成。川越 - 大宮間の国鉄線誘致運動を開始した。こうした状況下、同年夏に川越久保町駅で車庫火災が発生。当時大宮線所属の電動客車すべて(11両)を焼失した。原因は落雷とも漏電とも言われている。この火災後は中古車両を補充し運行を再開したが、1931年(昭和6年)に三橋村内で脱線事故を引き起こした。犠牲になったのは川越市の中学生であったことから、西武鉄道大宮線の不備は連日センセーショナルに報道された。 この事故後も同線は路盤や車両の老朽化からくる故障や脱線を起こし続け、ついには川越市民から廃止運動が起きる事態にまで発展した。この廃止運動は同線を利用していた通勤客約50名からなる「川越大宮間交通改善会」が起こしたもので、彼らは電車より「安全な」バスの運行を要望した。また西武鉄道大宮線を利用せずに自分達で自動車を雇うなどの不乗運動を展開した。この結果、西武鉄道が1933年(昭和8年)1月から西武鉄道大宮線と並行したバスを運行開始した。33往復あった同線の便数は18往復に半減し、1934年(昭和9年)に国鉄川越線敷設が決定されたことで、西武鉄道大宮線の廃止は決定的なものとなった。 多くの区間は道路上に敷設される併用軌道で、川越久保町駅 - 大宮駅間を約45分で結んでいた。川越久保町駅から荒川河川敷付近(現在の荒川は、当時の蛇行部分をその後の河川改修で直線化したものであり、当時とはかなり違う)までは、一部を除き廃線跡は道路としてもあまり残っていない。一方、荒川河川敷の東側では現在の埼玉県道2号さいたま春日部線と並行し、県道2号線と路線開通後に作られた国道17号線との交差点(桜木町交差点)から大宮駅までは直線で結んでいた。荒川以東の路線跡は一部を除き現在でもほぼ道路として残っている。 1940年(昭和15年)に省線 川越線が開業し、川越駅 - 大宮駅間を約29分で結ぶようになったことで大宮線は乗客が激減し、翌年に廃線となった。設備は日本発送電の子会社である北海道石炭へ40万円で売却された。廃線後2020年時点で、西武バスの路線バスが本川越駅 - 川越グリーンパーク間、川越グリーンパーク - 大宮駅西口間で運行されている。
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