九州電灯鉄道の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
詳細は「九州電灯鉄道」を参照 名古屋電灯が東海地方にて拡大する頃、九州地方では博多電灯を起源とする九州電灯鉄道株式会社が勢力を伸ばしていた。前身の博多電灯は1896年(明治29年)3月26日、福岡市の実業家らによって資本金5万円で設立。電源として60kW発電機2台を備える火力発電所を建設し、福岡市内を対象に1897年(明治30年)11月より供給を開始した。事業は約1800灯の電灯供給から始まり、名古屋電灯と同様その後拡大を続けていく。 1900年代後半の水力開発ブームに際して博多電灯は水力開発に消極的であったが、役員の一部が佐賀県北部を流れる筑後川水系城原川での水力発電に着目し、伊丹弥太郎ら佐賀の実業家を募って1906年(明治39年)に広滝水力電気を設立する。設立に際し、不況のため出資の募集に難渋して福澤桃介に協力を依頼したことから、福澤が4分の1を出資する筆頭株主であった。福澤は佐賀に続いて福岡でも事業にかかわり、市内の路面電車敷設計画に参加し、1909年に福博電気軌道が設立されると同社社長に就任した。この事業には福澤の後輩松永安左エ門も加わっており、専務に就任している。松永はそれまで関西で石炭商を営んでいたが、福博電気軌道専務就任を機に福岡へ移って事業の指揮をとった。1910年、広滝水力電気を改組して九州電気が設立されると、福澤・松永はともに取締役に就任。翌年には松永が常務となった。 1911年10月、福岡市内の供給事業と電車事業が合同し、博多電灯・福博電気軌道の合併によって資本金280万円の博多電灯軌道が発足。続いて福澤や松永の主導により博多電灯軌道と九州電気の合併が計画され、翌1912年(明治45年)6月に合併が成立、資本金485万円の九州電灯鉄道が成立した。このとき、九州電気から伊丹弥太郎が社長に就任し、松永は常務、福澤は相談役に回った。 成立後の九州電灯鉄道は、九州電気から引き継いだ嘉瀬川上流(川上川)での電源開発を進めるとともに周辺事業者の統合を積極化する。まず1913年、長崎県佐世保市の佐世保電気など、資本や電力供給の関係があった周辺事業者5社を合併。続いて1915年(大正4年)には、同様に経営を握っていた福岡県内の小事業者2社から事業を買収した。そして翌1916年(大正5年)には有力事業者の合併に踏み切り、福岡県久留米市の久留米電灯、長崎市の長崎電気瓦斯を合併、さらに山口県下関市の馬関電灯をも合併し本州への進出を果たした。下関周辺ではその後も小事業者を合併・買収している。以上の相次ぐ合併に増資も加わり、1920年3月に九州電灯鉄道の資本金は5000万円に達した。また供給区域の拡大と第一次世界大戦を背景とする需要増加により供給成績は大きく伸長し、1921年には電灯数約70万2千灯、電力供給約3万4千馬力を数えるまでになった。
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