九州電灯鉄道成立
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1911年5月31日、九州電気は再び博多電灯と合併仮契約を締結した。今度は福博電気軌道を加えた3社で合併する、というものである。合併は九州電気常務と福博電気軌道専務を兼ねる松永安左エ門が主導。水力発電を電源とする九州電気と火力発電を電源とする博多電灯・福博電気軌道を合併すれば最も経済的に活動できるとの狙いからであったが、九州電気・博多電灯の株主はこの合併に強く反対した。当時の3社の業績を見ると、払込資本金は九州電気・福博電気軌道・博多電灯の順に多かったが、利益金はその反対で、したがって配当率も博多電灯12パーセント、福博電気軌道10パーセント、九州電気7パーセントという具合であった。このことから博多電灯側は業績が見劣りする九州電気の合併に難色を示し、九州電気側は営業成績を基準とする不利な合併条件となることをおそれて合併に反対した。また九州電気の本社転出をおそれた佐賀市議会も3社合併に反対する決議を行っている。 九州電気側の意見不一致のため、さしあたり同社を外した博多電灯・福博電気軌道の2社で合併することとなり、1911年6月28日両社は臨時株主総会にて合併仮契約を承認して両社間だけでの合併契約を交した。そして同年11月に両社の合併が成立し、博多電灯改め博多電灯軌道が発足した。博多電灯軌道の社長には博多電灯社長の山口恒太郎が続投し、松永が専務に入った。博多電灯軌道成立後、同社の株価は会社の将来への期待から高騰したものの、反対に合併に参加しなかった九州電気の株価は下落していった。このことから合併参加に反対していた九州電気の株主や一部役員も博多電灯軌道と九州電気の合併に前向きになった。そして同年9月24日、九州電気も博多電灯軌道との合併を株主総会で議決した。 ところが今度は博多電灯軌道社内で路線対立が表面化し、発電力増強の必要性を認め合併を推進する松永らと反対派の堀三太郎らが対立、株式買占めによって主導権を争う事態になった。博多電灯軌道では1912年(明治45年)4月25日の株主総会で紛糾の末に社長山口恒太郎の裁定で九州電気との合併が議決され、翌26日両社間に改めて合併契約が締結された。合併に際しての存続会社は博多電灯軌道。九州電気の資本金は270万円だが配当率の関係からこれを205万円に切り下げ、九州電気の株主に対して1対0.8125(額面50円払込済株式の場合)または1対0.75(25円払込株式の場合)の割合で同額払込みの博多電灯軌道株式を交付、差額は別途積立金に組み入れ減価償却に充てる、という合併条件であった。合併は6月7日に逓信省より認可されている。 そして1912年6月29日、博多電灯軌道と九州電気の合併が成立、博多電灯鉄道側の社名変更により「九州電灯鉄道株式会社」が成立した。合併に際し佐賀県在住の株主が合併後の本社を佐賀市に置くよう求めたが、同日の株主総会で九州電灯鉄道の本社は引き続き福岡市に置くと決まった。総会では続いて役員選出をめぐって紛糾し、その結果筆頭株主で社長候補のの福澤桃介が役員就任自体を辞退、九州電気から佐賀の伊丹弥太郎が新社長に選出されている。合併後、佐賀市には旧九州電気の供給区域を所管する佐賀支社(後の佐賀支店)が設置された。
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