九州電灯鉄道との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:11 UTC 版)
「九州水力電気」の記事における「九州電灯鉄道との対立」の解説
博多電気軌道の合併により福岡市とその周辺における電灯・電力供給権を取得した九州水力電気は、翌1913年春から地下配電線工事を始めた。博多電気軌道の争奪戦の際に世論を味方につけたことから工事に際して「九水地下線電灯後援会」が福岡市民によって組織され、後援会が電灯点火の募集に努めたため6月末までに2万2千灯の申込を集めた。九州電灯鉄道よりも電灯料金を低く設定したことも短期間で多数の申込を集める要因となっている。工事は同年11月までに春吉から中洲全域・博多南部の地域で埋設が完了し、屋内取付を残すのみとなった。九州水力電気の進出に対抗して九州電灯鉄道の側でも電灯料金を同水準に引き下げた。 こうした競争は市民の歓迎の一方、福岡市外の両社株主にとっては不都合なものとされ、紛争を根絶し重複投資を避けるべきという声が次第に強くなっていった。9月になると九州水力電気相談役の和田豊治と九州電灯鉄道常務の松永安左エ門との間で合併に関する意見交換が行われ、その後の協議の結果、1913年11月30日に合併に関する申合書が両社の間で調印されるに至った。申合書には合併条件に関するもののほか、地下線工事に関する事項も含まれた。後者については以下のような内容であった。 九州水力電気は福岡市とその周辺にて施行中の地下線工事を中止する。 工事中止と同時に九州電灯鉄道は地下線工事施工済み区域内(地下線区域)において現在経営中の営業権ならびに架空配電線・屋内設備一切を九州水力電気へ譲渡する。譲渡代金は1灯につき10円で、その灯数は両社で別途協定する。 代金支払い完了までの間、九州水力電気は地下線区域内の営業一切を九州電灯鉄道へ委託する。 福岡市とその周辺における電灯・電力料金は相互の承諾なしに値下げ・割引しない。 この協定に基づき両社の間で合併条件を詰める作業が進められたが、1907年より年率12パーセントの配当を実施していた九州電灯鉄道と、設立から日が浅く配当率が当時年率6パーセントにすぎなかった九州水力電気とでは経営状況の隔たりが大きく、合併比率をめぐり意見は対立した。一方で申合書は一部履行され、九州水力電気は地下線工事を中止し、申合書に盛り込まれていた九州電灯鉄道から九州水力電気への後藤寺電灯・若松電気の株式譲渡も実行された。こうした動きにもかかわらず、1916年(大正5年)冬に合併交渉は決裂した。 翌1917年(大正6年)5月、九州電灯鉄道は九州水力電気に対し合併確認の訴訟を起こす。これについては1920年(大正9年)6月に九州電灯鉄道の敗訴が確定するが、その間の1919年(大正8年)3月に九州水力電気が申合書で協定した地下線区域内における電灯営業権の譲渡を要求して九州電灯鉄道を提訴した。福岡地方裁判所では九州水力電気の敗訴となるが長崎控訴院では勝訴となり、大審院でも上告が棄却されて1923年(大正12年)5月に九州電灯鉄道改め東邦電力の敗訴・九州水力電気の勝訴が確定した。裁判の結果を踏まえ、実際の許認可を出す逓信省(当時の逓信大臣は犬養毅)は、「九州水力電気は東邦電力から地下線区域の営業権を譲り受けるが、そのまま5年間は東邦電力に経営を委託する」という条件で両社の仲裁を試みた。1924年(大正13年)6月、逓信省の裁定に従い九州水力電気は約30万円で東邦電力より営業権を取得し、これをそのまま東邦電力へ経営委託した。委託灯数は1924年11月末の時点で3万灯余りであった。 その後1934年(昭和9年)になって経営委託の解消・東邦電力への移譲と九州水力電気による福岡市内の地下線50馬力未満の小口電力供給廃止が両社間で合意に達し、12月31日付で九州水力電気から東邦電力への営業権・資産の譲渡が完了した。従って九州水力電気による福岡の電灯市場への参入は失敗に終わったといえる。
※この「九州電灯鉄道との対立」の解説は、「九州水力電気」の解説の一部です。
「九州電灯鉄道との対立」を含む「九州水力電気」の記事については、「九州水力電気」の概要を参照ください。
- 九州電灯鉄道との対立のページへのリンク