博多電気軌道の合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:11 UTC 版)
九州水力電気が発足するのと同時期、福岡市では九州電灯鉄道という有力な電気事業者が成立していた。同社の起源は1897年(明治30年)に開業した博多電灯で、1911年に福岡の路面電車会社福博電気軌道を合併し博多電灯軌道となり、次いで1912年6月には佐賀県の九州電気と合併して九州電灯鉄道となったものである。筆頭株主は東京の実業家福澤桃介で、経営陣は佐賀の伊丹弥太郎が社長、福岡の松永安左エ門ほか2人が常務という顔ぶれであった。 九州電灯鉄道に吸収された福博電気軌道という路面電車会社は、福澤や松永らの発起により1909年(明治42年)に設立され、翌1910年に福岡市街を縦貫する路線を敷設したが、これとは別に地元福岡県の実業家の発起により博多電気軌道(初代)という会社も1910年3月に設立された。博多電気軌道は市街地外縁への循環線敷設を目的とし、1911年10月に最初の区間を開業させた。さらに同社は1910年7月に筑紫水力電気(同年1月設立)の事業を買収して電気供給事業にも参入、電車事業と同じく1911年10月より開業し、南畑発電所(水力・750キロワット)を電源に供給を始めた。その供給区域には福岡市内とその周辺(筑紫郡住吉町・千代村・堅粕村・豊平村・警固村、いずれも現・福岡市)が地下配電線方式によるという条件付きながらも含まれており、博多電灯以来同地の市場を独占してきた九州電灯鉄道にとって脅威となった。 そのため九州電灯鉄道は博多電気軌道の参入を防ぐべく1912年2月より麻生太吉・中野徳次郎ら筑豊の炭鉱業者を仲介者として合併交渉に着手する。しかし九州電灯鉄道側が合併条件を引き下げたために交渉は難航し、7月になっても決着しなかった。こうした膠着状態を見た九州水力電気は博多電気軌道の合併に動き出し、共通の大株主である中野を介してより有利な条件を示して合併を勧誘した。提案を受けて博多電気軌道は7月17日に役員会を開き、九州水力電気への合併を決めた。19日に麻生の調停によって一旦九州電灯鉄道と合併仮契約を締結するが、翌日大株主会が九州水力電気との合併を主張したためこの契約をすぐに撤回、改めて九州水力電気との合併仮契約を締結した。 8月9日の株主総会で合併契約は承認され、その後九州電灯鉄道による合併決議無効訴訟などの妨害があったものの、11月4日に九州水力電気と博多電気軌道の合併が完了。合併に伴い九州水力電気の資本金は800万円から1150万円に増加した。
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