九州水力電気との合併
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「博多電気軌道」の記事における「九州水力電気との合併」の解説
博多電気軌道が筑紫水力電気から買収した電気供給事業は、電気軌道事業と同じく1911年10月に開業した。電源は南畑発電所(水力・750キロワット)で、福岡市内から筑紫郡・糟屋郡・早良郡の各一部にまたがる供給区域を持っていた。そのうち1911年10月より供給を始めたのは筑紫郡二日市町(現・筑紫野市)と大宰府町(現・太宰府市)で、翌1912年4月には水城村(同)・大野村(現・大野城市)・那珂村(現・福岡市)と糟屋郡宇美村(現・宇美町)でも開業している。 開業した郊外地域以外にも、博多電気軌道は福岡市内とその周辺町村(筑紫郡住吉町・千代村・堅粕村・豊平村・警固村、いずれも現・福岡市)にて地下配電線方式による電灯供給を認可された。この地域は博多電灯軌道(1911年11月に博多電灯と福博電気軌道が合併し成立)の独占的な地盤であったことから、同社は供給事業方面での博多電気軌道の進出を恐れた。そこで博多電灯軌道では大株主であった筑豊の炭鉱業者堀三太郎が旗振り役となって博多電気軌道の合併を推進し、麻生太吉・安川敬一郎・中野徳次郎といった炭鉱業者を仲介に1912年2月より合併交渉を始めた。しかし堀派は佐賀県の九州電気との合併を優先すべきとする福澤・松永派との社内対立に敗れ、その結果博多電灯軌道と九州電気の合併が先に成立して1912年6月に九州電灯鉄道の成立をみた。 九州電灯鉄道成立後も博多電気軌道との合併交渉は進められたが、九州電灯鉄道は6月上旬になって合併条件を引き下げ、博多電気軌道の35円払込5万株・払込総額175万円に対して新株25円払込2万8000株・払込総額70万円を交付する(別途解散費用5万円も交付)という合併比率を提示した。こうした行動は博多電気軌道の財務状況を懸念してのことと言われるが、当然博多電気軌道側にとって好ましいものではないため、合併交渉は難航した。そのため7月になると、合併交渉の難航を見た九州水力電気が博多電気軌道の合併に参入した。同社は和田豊治・日比谷平左衛門ら富士瓦斯紡績経営陣が中心となって設立した新興の電力会社で、1911年4月に会社が発足して当時筑後川水系にて大規模水力発電所を建設中であった。 九州水力電気が共通の大株主中野徳次郎を介して博多電気軌道側に提示した合併比率は、新株12円50銭払込7万株・払込総額87万5000円を交付するというもので、九州電灯鉄道側が提示するものよりも有利であった。博多電気軌道はこれを受け入れ1912年7月17日の役員会にて九州水力電気への合併を決定した。だが九州電灯鉄道の巻き返しがあり19日には麻生太吉の調停によって九州電灯鉄道と博多電気軌道は合併仮契約を締結するに至る。ところが翌20日、博多電気軌道の大株主会が九州水力電気との合併を主張すると同社経営陣はこの契約をすぐに撤回、改めて九州水力電気との合併仮契約を締結した。8月9日、株主総会で合併契約は承認され、その後九州電灯鉄道による合併決議無効訴訟などの妨害があったものの、11月4日に九州水力電気と博多電気軌道の合併が完了した。 合併により博多電気軌道の路線は旧北筑軌道線も含めて九州水力電気が継承。大分県の旧豊後電気鉄道線(「大分電鉄線」と呼称)と区別するため市街電車線は「福岡電鉄線」とされた。その後1914年(大正3年)4月22日に、用地買収難航のため開業が遅れていた循環線の残存区間が開業し、博多電気軌道の計画線がすべて開業するに至った。
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九州水力電気との合併
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延岡電気の供給成績は1930年代初頭の一時期を除いて増加しており、1938年(昭和13年)10月末時点では電灯数11万703灯、小口電力3,185馬力(約2,343キロワット)、大口電力2,008キロワット、電熱535キロワットであった。なお延岡市には大口需要者の旭ベンベルグ絹糸延岡工場(現・旭化成)があるが、同工場の電源は自家発電(1937年時点で7か所・総出力5万8,898キロワット)や親会社日本窒素肥料からの受電が主体で、延岡電気からの供給は受けていない。 1930年代後半以後、日中戦争下で電力管理法施行や日本発送電設立(1939年4月)など国主導の電気事業再編(第1次電力国家管理)が進む中、延岡電気の親会社九州水力電気は九州における民間事業者による事業再編の中心の一つとなった。すなわち、1940年(昭和15年)4月1日、傘下の各社、延岡電気・神都電気興業(宮崎県・旧日向水力電気区域が再独立)・南豊電気(大分県)・昭和電灯(福岡県)・筑後電気(同)の5社を一挙に合併したのである。 合併後、電力国家管理が進展して日本発送電への統合強化と配電統制が推進され(第2次電力国家管理)、1941年(昭和16年)8月、「配電統制令」の施行に至る。同令に基づき全国を9ブロックに分割し、地区ごとに国策配電会社を新設してこれに既存配電事業を統合することとなった。九州地方では九州7県に沖縄県を加えた地域の配電事業を九州配電株式会社に統合する方針とされ、九州水力電気と九州電気(旧・熊本電気)・日本水電・東邦電力の4社が統合に参加するよう当局から命令をうけた。このうち九州水力電気は「配電株式会社となるべき株式会社」に指定され、翌1942年(昭和17年)4月1日の九州配電設立と同時に消滅した。
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