九州水力電気による経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:38 UTC 版)
「博多電気軌道」の記事における「九州水力電気による経営」の解説
九州水力電気が博多電気軌道を合併した後の1913年(大正2年)になって、九州水力電気そのものと九州電灯鉄道の合併話が具体化する。しかし結局条件面で折り合わず交渉は決裂、両社は福岡市場での電気供給事業をめぐって対立を続けた。従って福岡市における電車経営が一元化されることはなく、旧博多電気軌道線は九州水力電気、旧福博電気軌道線は九州電灯鉄道(1922年以降東邦電力)、と分立した状態が長く続いた。 九州水力電気福岡電鉄線は循環線全通により大きく利用を伸ばし、1914年度には年間290万人の利用があった。その後乗客数は第一次世界大戦中と戦後の好況により急増、1918年度に年間500万人を超え、1920年度には戦後恐慌が発生したにもかかわらず年間880万人に達した。北筑軌道線も同様に乗客が増加し、1910年代前半に60万人台であった年間乗客数は1917年度より100万人を超えている。貨物輸送量は大戦景気を背景として沿線に炭鉱を抱える北筑軌道線の方が大きくなり、ピーク時には年間20万トン以上を輸送した。 輸送量の増加や沿線の早良郡西新町・姪浜町(いずれも現・福岡市)の市街地化に対処するため、今川橋停留場(西新町)と加布里停留場(現・糸島市)を結ぶ北筑軌道線のうち、今川橋から姪浜停留場までの4.0キロメートルを電化する認可を1919年(大正8年)12月に取得した。この区間には軌間1,435ミリメートルで線路を敷設の上で電化し、1922年(大正11年)7月26日より電車運転を始めた(「北筑電鉄線」と称す)。電化の結果、北筑軌道線の運転系統は姪浜にて分割されたが、貨物列車は全線にわたり蒸気機関車牽引が継続され、電化区間は電化前の914ミリメートル軌間と併用の三線軌条とされた。なお非電化区間はその後の北九州鉄道線(現・JR筑肥線)の開通によって並行路線と化して存在意義を失ったため、鉄道省の斡旋により北九州鉄道による買収(事実上の補償)が決定、1928年(昭和3年)5月31日付で許可を得て北九州鉄道へと営業休止の上で譲渡した。 電化がなった北筑電鉄線の起点は樋井川に架る今川橋の西側で、橋の東側を終点(今川橋停留場)とする東邦電力線と接続していたはいたものの、福岡市内線(循環線・吉塚支線)との連絡は他社線頼みであった。このため九州水力電気では市内線と北筑線を直接繋ぐ「城南線」を北筑線電化と同時に計画し、1920年(大正9年)6月に軌道敷設特許を取得する。沿線での耕地整理に伴う経路変更を経て、城南線は市内線渡辺通一丁目停留場と北筑線西新町停留場を結ぶ5.0キロメートルの新線として1927年(昭和2年)3月26日に開業した。各線の乗客数は福岡市内線については1923年度に年間1000万人を突破してからは伸び悩みの状態、北筑線については部分電化後年間200万人を超えてはいたものの減少傾向にあったが、城南線の開通で両線とも大きく増加し、1928年度には城南線を含む全体の年間乗客数が2000万人に達した。
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