北九州鉄道とは? わかりやすく解説

北九州鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/29 13:07 UTC 版)

北九州鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本
佐賀県唐津市大字満島4019[1]
設立 1919年大正8年)3月15日[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、バス事業、ホテル業 他[1]
代表者 専務 八木辨吉[1]
資本金 5,500,000円[1]
5,200,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1937年(昭和12年)4月1日現在[1]
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北九州鉄道(きたきゅうしゅうてつどう)は、大正時代から昭和時代初期にかけて現在の九州旅客鉄道(JR九州)筑肥線の主要部を建設・運営した鉄道会社である。

佐賀県北部の東松浦郡唐津)・西松浦郡伊万里)と他地方を結ぶ鉄道としては既に明治時代にそれぞれ唐津興業鉄道伊万里鉄道九州鉄道長崎線に接続する形で建設され、後に九州鉄道を経て国有化され鉄道院唐津線伊万里線になっていたが、福岡方面へはいずれも大きく迂回する線形となり不便なため、両都市と福岡とを短絡する路線を建設するために設立された。

当時は日本でも数少ない気動車(ガソリンカー、後にディーゼルカーも)による運行を行ったり、沿線の名所遊覧図を制作する(吉田初三郎画)[2]等積極的な経営を行ったが、1937年に買収・国有化され、鉄道省筑肥線となった。

沿革

北九州鉄道の本社として建てられた宮島商事事務所[3][4](唐津市船宮町)
  • 1918年(大正7年)10月23日 - 北九州軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(筑紫郡那珂村-西松浦郡大坪村間)[5]
  • 1919年(大正8年)3月15日 - 北九州軽便鉄道株式会社設立(12月23日に北九州鉄道株式会社に社名変更)。資本金500万円。初代社長に草場猪之吉就任[6][7]
  • 1920年(大正9年)10月19日 - 鉄道免許状下付(福岡市大字住吉町-筑紫郡堅粕町間)[8]
  • 1922年(大正11年)12月13日 - 鉄道免許失効(福岡市大字住吉町-筑紫郡堅粕町間指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[9]
  • 1923年(大正12年)12月5日 - 福吉 - 浜崎間が開業[10]
  • 1924年(大正13年)
  • 1925年(大正14年)
  • 1926年(大正15年)10月15日 - 博多 - 南博多分岐点間開業。博多から東唐津までが開業する。南博多駅が貨物駅となる[16]
  • 1928年(昭和3年)
  • 1929年(昭和4年)6月20日 - 東唐津 - 山本間開業[18]
  • 1933年(昭和8年)6月19日 - 重油動力併用認可を得る。
    • 気動車にディーゼルエンジンを導入。同年以降1936年(昭和11年)までに6両のディーゼルカーを新製、主力車となった。ディーゼルカーの導入は戦前私鉄としては全国でも数少ない試みであった。
  • 1935年(昭和10年)3月1日 - 山本 - 伊万里間が開業し博多 - 伊万里間が全通[19]
  • 1936年(昭和11年)7月9日 - 山本発伊万里行のガソリンカーが、午後6時15分頃に牟田部甲斐田踏切北方50mの箇所に差し掛かった際、路盤が崩壊し車両が脱線。車両は3m下の松浦川に転落し、乗客の死者7名、重軽傷9名、行方不明3名を出す大惨事となった。原因は連日の豪雨で地盤がゆるんでいたためであった[20]
  • 1937年(昭和12年)10月1日 - 買収により国有化され、路線は筑肥線となる[21]。会社そのものは北九州鉄道自動車と称して存続、バス事業のみの会社となる。
  • 1941年(昭和16年) - 昭和自動車に自動車事業[22]を譲渡。

路線

国有化直前の路線を示す。南博多駅は一時博多側のターミナルであったが、鉄道省博多駅へ乗り入れたときに貨物支線上の貨物駅となり、国有化時に独立した駅としては廃止された。しかし、その後も博多駅構内の住吉貨物積卸場という扱いで、貨物の取扱を第二次世界大戦後まで継続していた。

  • 博多 - 東唐津 - 山本 - 伊万里
  • 住吉信号所 - 南博多(貨物線)

輸送・収支実績

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1924 235,395 2,943 61,746 57,854 3,892 償却金2,000 0
1925 406,969 9,235 185,401 141,500 43,901 雑損16,730 116,355 158,364
1926 565,666 14,145 306,567 250,456 56,111 雑損775 208,868 270,430
1927 631,408 53,764 379,549 321,606 57,943 50 224,060 275,720
1928 618,386 92,344 365,156 315,878 49,278 自動車1,043 雑損1,796 214,898 342,529
1929 633,749 105,861 353,224 327,157 26,067 雑損350償却金24,000自動車4,512 249,234 346,107
1930 806,499 137,967 398,086 311,306 86,780 雑損21,873自動車ホテル31,187 216,078 355,500
1931 875,646 126,876 383,886 344,142 39,744 雑損74,869自動車92,514 208,728 365,077
1932 964,903 135,278 376,414 258,055 118,359 雑損償却金190,595自動車24,583 190,793 335,242
1933 1,167,137 141,384 399,713 278,577 121,136 雑損188,620自動車16,834 189,311 353,113
1934 1,265,437 154,543 429,679 270,098 159,581 雑損127,869自動車6,236 163,814 174,200
1935 1,611,590 170,907 539,265 357,896 181,369 雑損償却金36,391自動車6,243 191,693 164,640
1936 1,821,734 165,994 644,999 429,110 215,889 雑損償却金19995自動車34,359 183,112 94,263
1937 1,651,922 151,452 574,686 365,162 209,524 自動車1,569 雑損49,104自動車37,491 152,145 59,424
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

車両

蒸気機関車

開業から国有化までの間に在籍したのは計10両で、国有化時には8両が在籍した。

  • 1 : 1923年、日本車輌製造製の建設用に購入された車軸配置0-4-0(B)型タンク機関車。1936年2月廃車。
  • 2, 3 : 1923年、日本車輌製造製の車軸配置2-4-2(1B1)型タンク機関車。国有化後は280形(280, 281)に改称
  • 4 : 1923年譲受の旧鉄道省2852。1897年、米国ピッツバーグ製の車軸配置2-6-0(1C)型タンク機関車。1929年廃車後、据え付けボイラー代用となる。
  • 5 - 8 : 1925年、汽車製造製の車軸配置2-6-2(1C1)型タンク機関車。国有化後は3420形(3420 - 3423)に改称。
  • 9 : 1929年譲受の旧鉄道省633。1896年、英国ナスミス・ウィルソン製の車軸配置2-4-2(1B1)型タンク機関車。国有化後は旧番に復帰。
  • 10 : 1934年譲受の旧鉄道省3406。1898年、米国ピッツバーグ製の車軸配置2-6-2(1C1)型タンク機関車。国有化後は旧番に復帰。

気動車

  • キハ5・6・7
  • キハ8・9
  • ジハ20・21
  • ジハ50・51
  • ジハ60・61

「キハ」はガソリンエンジン、「ジハ」はディーゼルエンジンを搭載。1935年(昭和10年)以降製造のジハ50・51と60・61は前年にアメリカ合衆国で製造されたステンレス製車両パイオニア・ゼファーを意識した銀色塗装で、さらに博多 - 伊万里間全通後の長距離運用も考慮して便所が設置された。便所の設置は戦前の気動車としてはきわめて希な例であった。

客車

二軸車ボギー車合わせて7形式28両が在籍し、全車が国有化された。

  • ハフ30 - 35
    1923年、開業用に日本車輌製造で製造されたオープンデッキ式の二軸車。全長は8,179mm、定員は40人。国有化後は2280形(ハ2280 - 2285[23])と改称された。1941年にハ2285を播丹鉄道に払い下げハフ26となる。客車は買収直前に一部廃車しているので再国有籍となったか不明[24]
  • ハ36, 37
  • ハ38, 39
    1924年、前原以東延伸用に日本車輌製造で製造されたオープンデッキ式の二軸車。車体長は9.3mと大型化された。ハ36, 37は客室のみの定員40人、ハ38, 39はトイレを設けたため、定員は36人となった。国有化後は2280形(ハ2286 - 2289[23])と改称された。1940年熊延鉄道に払い下げハ47-50となる[25]
  • ハ40 - 44
  • ハフ45 - 49
    1925年、南博多 - 東唐津間全通時に増備された日本車輌製造製のオープンデッキ式二軸車。いずれもトイレ付で定員は36人。国有化後は2280形(ハ2290 - 2299[23])と改称された。ハ2293は1949年に南薩鉄道へハフ53(1)の代償[26]としてハフ53(2)となり1969年廃車。
  • ユニ1, 2
    郵便室1t、荷物室3tの郵便荷物合造二軸車。日本車輌製造製。デッキは設けられていない。国有化後は4850形(ユニ4850, 4851)と改称された。
  • ホハフ1 - 3
  • ホハフ10 - 12 → ホハフ4 - 6
    1926年、博多延伸時に日本車輌製造で製造された全長17m級の木造二軸ボギー客車。鉄道省のナハ12500形に相当し、ホハフ1 - 3は簡易仕切りにより車掌室を設け定員76人、ホハフ10 - 12は定員80人であったが、1934年にホハフ1 -3同様に改造し、続番に改称された。国有化後は14050形(ナハフ14050 - 14054)、手ブレーキを取り外していた1両は12360形(ナハ12360)に改称された。

貨車

以下の11形式49両が鉄道省に引き継がれた。

  • ワ500形(ワ500 - ワ504) → ワ20400形(ワ20400 - ワ20404)
  • ワ505形(ワ506 - ワ514) → ワ1形(ワ9354 - ワ9362)
  • ワブ530形(ワブ530 - ワブ532) → ワフ19500形(ワフ19500 - ワフ19502)
  • カ550形(カ550) → カ1形(カ244)
  • ト200形(ト200 - ト205) → ト200形(ト200 - ト205)
  • ト206形(ト206 - ト208) → ト4700形(ト4854 - ト4856)
  • フト209形(フト209, フト210) → ト4700形(ト4857 - ト4858)
  • ト213形(ト213) → ト213形(ト213)
  • トム300形(トム300 - トム314) → トム1形(トム2141 - トム2155)
  • チ211形(チ211, チ212) → チ211形(チ211 - チ212)
  • チ214形(チ214, チ215) → チ1形(チ445 - チ446)

ワ505は、一時入換動車に改造されキ1となった。成績が良ければ、本線での客車牽引も目論まれたが、結局不首尾に終わり、貨車に戻されカ550とされている。

車両数の推移

年度 機関車 動車 客車 貨車
蒸気 ガソリン ガソリン ディーゼル 有蓋 無蓋
1924 4 10 9 5
1925 4 20 12 19
1926 8 28 21 19
1927 8 28 21 21
1928 8 28 21 21
1929 8 28 19 21
1930 8 3 28 19 31
1931 8 1 6 28 17 31
1932 8 1 6 28 17 31
1933 8 8 28 18 31
1934 8 8 28 18 31
1935 9 6 4 28 18 31
1936 9 5 6 28 18 31
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 「空想沿線紀行」『J train』38号 (2010年夏)に掲載
  3. ^ 宮島商事の近代史遺産”. 宮島商事. 2025年5月29日閲覧。
  4. ^ <たてものがたり 唐津建築遺産>(39)船宮町の宮島商事本社社屋 交通、産業の変遷物語る」『佐賀新聞』2023年4月26日。2025年5月29日閲覧。
  5. ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1918年10月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』『日本全国諸会社役員録. 第28回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「私鉄探求・北九州鉄道」『レイル』No.5、10頁
  8. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年10月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「地方鉄道免許失効」『官報』1922年12月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年12月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年4月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年7月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年4月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年6月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年11月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「地方鐵道運輸開始並旅客運輸廃止」『官報』1926年10月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「軌道営業廃止」『官報』1928年8月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年7月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1935年3月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 宮島醤油ホームページ『筑肥線物語』
  21. ^ 「鉄道省告示第360号」『官報』1937年9月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 1934年時『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  23. ^ a b c この車番はかつて元関西鉄道の客車に付けられており2代目もしくは3代目となる『客車略図 上巻』209頁210頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
  24. ^ 湯口徹「播丹鉄道とその車輛」『レイル (雑誌)』No.51、17頁
  25. ^ 田尻弘行 『熊延鉄道』 ネコ・パブリッシング、2003年、40-41頁
  26. ^ 定期検査を委託していた国鉄西鹿児島工場で入場中のハフ53(1)を紛失したため。高井薫平・田尻弘行『鹿児島交通南薩鉄線』(上)ネコ・パブリッシング、2008年、42頁

参考文献

  • 谷口良忠「私鉄探求・北九州鉄道」『レイル』No.5-6 1978年8-9月号
  • 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』(初版)電気車研究会、1991年12月1日、p.172頁。 

関連項目

外部リンク


北九州鉄道(現・筑肥線の一部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 07:18 UTC 版)

買収気動車」の記事における「北九州鉄道(現・筑肥線一部)」の解説

1937年の北九州鉄道買収に伴い何れも鋼製片ボギーガソリンカー5両、ボギーディーゼルカー6両の移管受けたメーカー全て汽車製造である。 ガソリンカー鉄道省並みに「キハ」名だったのに対しディーゼルカー形式当時表記ジーゼル」に起因すると見られるジハであったジハ50・516061は、前年アメリカ合衆国製造されステンレス製車両パイオニア・ゼファー意識した銀色塗装で、博多駅-伊万里駅間の長距離転に備えて最初から便所付で製造されていた。なお国有化後に国鉄気動車標準色に改められている。 キハ5 - キハ7(1930年製) → 鉄道省キハ5022 - キハ50241930年7月製造。北九州鉄道初のガソリンカー片ボギー車。 1944年2月東武鉄道譲渡され同社キハ5 - キハ7となった1945年8月キサ21 - キサ23改番され(異説あり)、矢板線客車代用として使用キサ21, キサ221954年5月キサ231958年8月廃車された。この内キサ21については、さらに寿都鉄道売却されハ21となったハ21になって以降の動向寿都鉄道車両参照)。 キハ8・キハ9(1930年製) → 鉄道省キハ5025・キハ50265 - 7に続く増備車で片ボギーエンジンなどは共通だが、車幅拡大などの寸法変更が行われている。同時に製造されキハ10買収前の1936年事故廃車された。 ジハ20・211933年製) → 鉄道省キハ40650・キハ40651 → 同 キハ40320キハ40321(1940年ガソリンカー化による)北九州鉄道初のディーゼルカー同時にボギー気動車キハ8類似の鈍重な形態備える。エンジン当初ドイツ製の2ストロークユンカース4-1だったが、不調のため1936年後続車類似の4ストローク型・サウラーBLD換装した。 ジハ50ジハ511935年製) → 鉄道省キハ40652・キハ40653 → 同 キハ40330・キハ40331(1940年ガソリンカー化による)1935年博多 - 伊万里全通備えた便所付の増備車で後述する樺太庁鉄道気動車似た正面5窓、前面傾斜した流線型車体を持つ。エンジンスイス製のサウラーBUDジハ60ジハ611936年製) → 鉄道省キハ40654・キハ40655 → 同 キハ40340・キハ40341(1940年ガソリンカー化による)ジハ50増備型でエンジン形式便所仕様同じだが、車体ボックスシート1つ延長し前面形状若干変更している。 買収後片ボギーガソリンカー各車は1938年以降休車し、1941年廃車された。またディーゼルカー各車は1940年には鉄道省制式のGMF13ガソリンエンジン換装されたが、国産ディーゼルエンジン鉄道省において実用段階達していない時点で、輸入エンジンのサウラーを少数運用するのは鉄道省にとって不都合であったものと見られる。これらも1941年から1943年にかけて休車し、1944年1月廃車された。 片ボギー車・ボギー車とも多く戦後私鉄払い下げられ再起している。

※この「北九州鉄道(現・筑肥線の一部)」の解説は、「買収気動車」の解説の一部です。
「北九州鉄道(現・筑肥線の一部)」を含む「買収気動車」の記事については、「買収気動車」の概要を参照ください。

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