九州武者修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 20:56 UTC 版)
文政5年(1822年)、神陰流の免許皆伝を受ける。この年、豊前中津藩の長沼無双右衛門の道場を訪ね、7日間門人たちと立ち合い、8日目に無双右衛門と試合をした。長沼は7日間進の技を観察し、用心して生竹で竹刀をこしらえ、これを進に使わせて立ち合ったが、機を見て踏み込んだ種次の左片手突きが長沼の鉄面を突き破り、眼球が面の外まで飛び出したという。その後豊後路から久留米へ武者修行し、久留米では40人と立ち合って、一戦も落とさなかったという。 文政8年(1825年)6月15日、種行が54歳で没し、種次は22歳で30石の禄を継ぎ、柳河藩の剣槍師範役を賜った。3年前に対決した長沼無双右衛門が傷を養生してのち、門人18人を連れて大石の門下に加わったのはこの年で、このころから入門者が九州各地から集まるようになったという。種次は、他国の門人には剣術だけを教え、槍術は指南しなかったという。
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