博多電気軌道との関係
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「福博電気軌道」の記事における「博多電気軌道との関係」の解説
福博電気軌道に対する軌道敷設特許から半年経った1909年7月、嘉穂郡の坂口栄らに対して福岡市とその周辺における軌道敷設特許が下りた。翌1910年3月、太田清蔵や渡辺与八郎、麻生太吉といった有力実業家を発起人に加えて博多電気軌道(初代)が発足。同社は福岡市の市街地外縁を循環する環状線と吉塚駅への連絡線の建設を計画し、1911年10月から順次路線を建設していった。福博電車はこの博多電気軌道線と水茶屋・天神町・博多駅前の3か所にて線路が交差することとなった。 また博多電気軌道は1910年10月に北筑軌道という軌道事業者を合併し、非電化軽便軌道線を引き継いだ。北筑軌道線の起点は樋井川に架る今川橋の西側で、橋の東側を終点(今川橋停留場)とする福博電車と接続していた。このため東西2つの博多電気軌道の路線の間を福博電車が繋ぐ形となっていた。 この博多電気軌道は電気供給事業の兼営を試み、福岡市とその周辺町村に対する供給権を取得していた。このため福岡市を地盤とする博多電灯改め九州電灯鉄道では供給事業での競争を防ぐべく博多電気軌道の合併を目指すに至る。合併交渉は博多電灯軌道時代の1912年2月より始められたが、九州電灯鉄道側が途中で合併条件を引き下げた(博多電気軌道の財務状態が良好でないのを懸念していたとされる)ために交渉は難航し、7月になっても決着しなかった。こうした膠着状態を見て九州水力電気が博多電気軌道の合併に動き出す。同社は1911年4月に設立されたばかりの電力会社で、当時筑後川水系にて大規模水力発電所を建設中であった。 九州水力電気では博多電気軌道に対し、九州電灯鉄道が提示するよりも有利な条件を示して合併を勧誘。九州水力電気の提案に応じた博多電気軌道は7月17日に役員会を開き、九州水力電気への合併を決めた。19日になって麻生太吉の調停により翻意し同社は九州電灯鉄道と合併仮契約を締結するが、翌日大株主会が九州水力電気との合併を主張したためこの契約をすぐに撤回、改めて九州水力電気との合併仮契約を締結した。8月9日の株主総会で九州水力電気との合併契約は承認され、その後九州電灯鉄道による合併決議無効訴訟などの妨害があったものの、1911年11月4日に九州水力電気と博多電気軌道の合併が完了した。 その後1913年(大正2年)になって、九州電灯鉄道と九州水力電気の合併話が具体化するものの、結局条件面で折り合わず決裂、両社は福岡市場での供給をめぐって対立を続けた。従って福岡市における電車経営が一元化されることはなく、旧福博電気軌道線は九州電灯鉄道、旧博多電気軌道線は九州水力電気と分立した状態が長く続いた。
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