日比谷平左衛門とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 経営者 > 日本の海事実業家 > 日比谷平左衛門の意味・解説 

日比谷平左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/10 09:27 UTC 版)

日比谷平佐衛門

日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日1848年3月25日) - 大正10年(1921年1月9日)は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。

経歴

越後国蒲原郡裏館村の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年(1860年)より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年(1878年)に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立[1]福沢諭吉慶應義塾)に学び、絹糸業を営む一方、紡績の将来性に着目し東京富士瓦斯紡績を設立し専務取締役。明治34年(1901年)頃、森村市左衛門の懇意により、武藤山治和田豊治、佐久間福太郎と共に、日清紡績鐘淵紡績の設立に関わり、「日本紡績界の巨人」といわれるようになった。大正8年(1920年)には埼玉県の所沢銀行を買収して日比谷銀行(その後野村銀行に買収され、現在はりそなホールディングス)と改称、綿業相手の金融を手がけると共に中国にも支店を持った。その他にも第一生命保険九州水力電気などの設立・経営に携わる。また、大正5年(1916年)に慶應義塾医学科振興のため寄附を行い、学事の振興にもつとめた。墓所は青山霊園(1イ7-1)。

家族

脚注

  1. ^ 『会員追悼録』p30日本工業倶楽部, 1925
  2. ^ 日比谷平左衛門『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 日比谷新次郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 日比谷新次郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  5. ^ a b c 日比谷一郎、日比谷繁、日比谷平左衛門『人事興信録 第13版 下』1941
  6. ^ 日比谷祐蔵『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  7. ^ 日比谷平吉『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  8. ^ 日比谷孝太郎『人事興信録 第11版下』1937
  9. ^ 震災と街の歴史 米澤正己、浜岳郷土史会、2013年6月25日
  10. ^ 池貝秀雄『人事興信録 第14版 上』1943

参考文献

関連人物

  • 堀越角次郎
先代
三井養之助
鐘淵紡績会長
1907年 - 1921年
次代
武藤山治




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日比谷平左衛門」の関連用語

日比谷平左衛門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日比谷平左衛門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日比谷平左衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS