商工省から戒告、清算へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:10 UTC 版)
「八千代生命保険」の記事における「商工省から戒告、清算へ」の解説
1925年(大正14年)10月、商工省が査察に入った結果、宣伝費に比して業績が不良であり、星製薬、葛原冷蔵等に巨額の貸付を固定させており、また責任準備積立金の運用に疑わしき点あり。同年末、商工省から戒告を受け、同省との間で業務上の改革あるいは営業科目の変更について折衝を重ね、翌1926年(大正15年)11月、改革案を申請した。 1927年(昭和2年)、営業改革の流れから、子会社の東亜キネマは「甲陽撮影所」を閉鎖、「東亜キネマ京都撮影所」に一本化した。 1928年(昭和3年)前後には内紛があり、社長の小原達明が退陣、同年3月にはふたたび復帰した。同年6月27日付の『大阪朝日新聞』では、商工省の保険部長が、同社の後継経営者として、大阪の藤田組・久原房之助、久原鉱業社長の鮎川義介の親戚が経営者である東京藤田合名会社、あるいは紡績事業家の日比谷平左衛門の一家を第一候補に内定、第二候補として、藤山雷太と元台湾銀行の川崎軍治とが協議中と報道した。小原は同社の持ち株のすべてを日魯漁業(現マルハニチロ)の社長で衆議院議員の堤清六に譲渡した。同年、小原は帝国火災保険の社長を退陣し、箱根土地株式会社(のちのコクド、現在は消滅)社長の藤田謙一が新社長に就任した。 1929年(昭和4年)3月、小笹正人が同社を退社して、マキノ・プロダクション御室撮影所長に就任、同社は映画事業から完全撤退、東亜キネマは阪急資本となった。同年12月には、同社の経営が日華万歳生命保険株式会社(のちの第百生命保険相互会社、現在のマニュライフ生命保険)に包括移転することが内定し、同年12月19日、八千代生命の株主総会、日華万歳生命の臨時株主総会でそれぞれ同議案が承認され、同日、日華万歳生命の専務取締役河合良成が商工省に認可申請した。 1930年(昭和5年)2月4日、商工省の認可が正式に下り、八千代生命は2か月間のモラトリアムに入った。同年4月23日、同社は解散、同年11月15日、同社の臨時株主総会で清算終了が確認された。 同社の東京の本社屋は、万平ホテルの経営者佐藤万平と日華生命の共同出資のもと設立された「株式会社万平ホテル」がホテルに改築、翌年1931年(昭和6年)2月、「東京万平ホテル」として開業、営業を開始した。しかし、1939年(昭和14年)には閉鎖された。 1932年(昭和7年)9月13日には、同社末期の一時期に同社の社長であった貴族院議員の奥田亀造が贈賄幇助で召喚、同月22日には起訴された。
※この「商工省から戒告、清算へ」の解説は、「八千代生命保険」の解説の一部です。
「商工省から戒告、清算へ」を含む「八千代生命保険」の記事については、「八千代生命保険」の概要を参照ください。
- 商工省から戒告、清算へのページへのリンク