渡辺渡 (冶金学者)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 渡辺渡 (冶金学者)の意味・解説 

渡辺渡 (冶金学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/25 10:04 UTC 版)

渡辺渡
渡辺渡
渡辺渡

渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日1857年9月15日) - 大正8年(1919年6月29日[1])は、日本冶金学者

人物・生涯

長崎県出身。大学南校を経て、1879年明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ[2]1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。しかし翌年に再び工科大学教授に任命され、農商務省鉱山局長を兼ねた。1899年(明治32年)、局長を辞し欧米に出張した。1902年(明治35年)から工科大学長を務めた。墓所は染井霊園

親族

  • 父・渡辺真 - 東京府平民[3]
  • 妻・すみ - 台北賓館台湾神宮などを手掛けた建築家福田東吾(1855年-1917年)の妹[3]
  • 長女・つな(1880年生) - 横堀治三郎の妻[3]
  • 二女・禄(1882年生) - 加茂正雄の妻[4]
  • 長男・渡辺仁(1887年生) - 東京帝大建築科卒。建築家。岳父に菊池武夫 (法律家)[5]
  • 三女・義乃(1890年生) - 古宇田實の妻[6]
  • 二男・礼(1894年生) - 法学士
  • 四女・智聰子(1897年生)
  • 五女・信夫(1899-1970) - 医師・堀江恭一(1889-1962)の妻[7]。婚家の堀江家は天正年間より中野郷(現・東京都中野区)の名主を務めた旧家で、恭一の父・堀江悦之助は地主で銀行家[8]。継母の松江は石坂泰三の姉[7]。弟の堀江重賢は日本ステンレス副社長、住友金属工業常務取締役[9][10]。妹の秀子は日比谷平左衛門の孫・平次郎に嫁いだ[11]。信夫・恭一夫妻には子がなく、屋敷の半分を中野バプティスト教会に売却し、信夫の遺言でもう半分を老人福祉センター設立のために中野区に寄附した[9]
  • 三男・渡辺誠(1903年生) - 商工省鉱山局技師

脚注

  1. ^ 『官報』第2072号、大正8年7月2日。
  2. ^ 20世紀日本人名事典『渡辺 渡』 - コトバンク
  3. ^ a b c 渡辺渡『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』加茂正雄
  5. ^ 渡辺仁『人事興信録』第13版(昭和16年) 下
  6. ^ 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』渡辺仁
  7. ^ a b 堀江恭一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  8. ^ 『東京府豊多摩』豊多摩郡、1916年、p387
  9. ^ a b 中野区の敬老館から「堀江」の名が消えた顛末 (2022年6月)中野非公式リポート
  10. ^ 役員住友金属工業(株)『住友金属工業最近十年史 : 創業七十周年記念』(1967.06)
  11. ^ 日比谷孝太郎『人事興信録 第11版下』1937

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渡辺渡 (冶金学者)」の関連用語

渡辺渡 (冶金学者)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渡辺渡 (冶金学者)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの渡辺渡 (冶金学者) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS