1900年代後半
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1960年ローマオリンピックにおいては自転車のロードレース競技でデンマークのヌット・エネマルク・イェンセンが急死する事件が発生。調査の結果、興奮剤を服用していたことが判明する。 1967年、ツール・ド・フランスに参戦中のトム・シンプソン(イギリスナショナルチーム)がモン・ヴァントゥ直前で倒れて急死。体内からアンフェタミン、利尿剤、アルコールなどが検出され、限界を超えた走りをしたためと確認された。 1972年、ミュンヘンオリンピック・競泳でリック・デモント(アメリカ)が400m自由形に出場し優勝したものの、検査でエフェドリンが検出されてメダル剥奪となった(ドーピング検査による金メダル剥奪の第1号選手)。デモントは喘息の持病があり、チームドクターらが「エフェドリンは喘息治療上欠かせない薬物であり、競技における不正の意図はない」と訴えたが、IOCはこれを退けた(医療目的の薬物を使用したことによる、初のドーピング)。 1976年のインスブルックオリンピックの70m級ジャンプで金メダルを獲得したハンス=ゲオルク・アッシェンバッハが、1988年の西ドイツ亡命後、テストステロンとプロビオナートを五輪当時服用していたこと、1983年以降はチームドクターとしてナショナルチームやジュニアチームに服用させていたことを証言した。 1988年ソウルオリンピック100mで当時の世界新記録を出したベン・ジョンソンがドーピング禁止薬物の検出により失格となり世界中に衝撃を与えた。 陸上女子におけるフローレンス・ジョイナー、マリタ・コッホ、中国の馬軍団(王軍霞ら)などの当時と比べ飛躍的に技術が進歩した現代であっても、肉薄することすらできない驚異的な世界記録はドーピングによるものではないかという疑惑は現在でもつきまとっている(ただし再検証は困難であるため、記録は抹消されていない)。 1980年代の旧ソ連や東ドイツなどの東側諸国において「ドーピングが国家レベルで組織的に行われていた」とする証言が多数存在している。その残滓とも思われる世界記録は今でも多く破られずに残っている。 詳細は「ドイツ民主共和国のスポーツ#ドーピング」を参照 元MLBのケン・カミニティが自己最高の打率.326・本塁打40・打点130を記録し、MVPも受賞した1996年にステロイドを使用していた事を現役引退後に告白した。筋肉が過剰に強くなったためにその後は靭帯や腱などの関節部分を相次いで故障し、引退後も男性ホルモンの分泌が極端に少なくなる等の後遺症に苦しめられ、躁うつ状態にもなった。また、「少なくとも半数の選手はステロイドを使用している」と発言した。 詳細は「メジャーリーグベースボールのドーピング問題」を参照 1998年、ツール・ド・フランスで後にフェスティナ事件と称される出場21チーム中5チームから不起訴処分や体調面の問題で告訴取り下げとなった者も含めて最終的には10名以上が告訴されることとなる大規模なドーピングスキャンダルが発覚した。 ここで問題となったのはEPO(エリスロポイエチン)を使用したドーピングだったが、当時の技術では外部から摂取した合成EPOと体内で自然に生成されたものとを区別することができなかったことから禁止物質には指定されていなかった。その為、「そもそも (ルール上の) ドーピングとして取り締まることは可能か」という点で選手側と主催者側とで対立が深まり、チームによる途中棄権(本件の発端となり主催者によって除外されたフェスティナに加え、チーム方針として6チームが棄権した)や全選手によるレース放棄が行われた。 2001年までにフェスティナのライダーとして出走した9名全員がEPOを使用したことを認め (但しこの当時は科学的証拠は何も無く、選手による自白のみだったが後年、技術の進歩で科学的にドーピングが証明された。)、選手個人ではなくチーム主導による組織的なドーピングがあったことを具体的に示す事例となった。 また、ドーピング検査は行われていたものの現実に則していないものだったことが浮き彫りとなった。 本事件はそれまでのIOCや各競技団体が独自に主導して行ってきたドーピング検査を第三者機関が独立して行う必要があるという機運を高めることとなった。そして翌年の1999年にWADAが発足した。 詳細は「フェスティナ事件」を参照 1998年長野オリンピックのスノーボードの試合で金メダルを獲得したロス・レバグリアティ (en:Ross Rebagliati)がドーピング検査の結果大麻の陽性反応が出たため、メダルが剥奪されかける騒ぎがあった。ただし、オリンピックの時点では、既に大麻を吸っていなかったことなどから、最終的に処分は取り消されている。
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1900年代後半
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1950年代になるとAIに関して活発な成果が出始めた。1956年夏、ダートマス大学が入居している建物の最上階を引き継いだ数学と計算機科学者のグループの一人である若き教授ジョン・マッカーシーはワークショップでのプロポーザルで "Artificial Intelligence" という言葉を作り出している。ワークショップの参加者は、オリバー・セルフリッジ、レイ・ソロモノフ、マービン・ミンスキー、クロード・シャノン、ハーバート・サイモン、アレン・ニューウェルなどであった。ジョン・マッカーシーはAIに関する最初の会議で「人工知能」という用語を作り出した。彼はまたプログラミング言語LISPを開発した。知的ふるまいに関するテストを可能にする方法として、アラン・チューリングは「チューリングテスト」を導入した。ジョセフ・ワイゼンバウムはELIZAを構築した。これは来談者中心療法を行うおしゃべりロボットである。 1956年に行われた、ダートマス会議開催の提案書において、人類史上、用語として初めて使用され、新たな分野として創立された。 1960年代と1970年代の間に、ジョエル・モーゼスは Macsyma(マクシマ)プログラム中で積分問題での記号的推論のパワーを示した。マービン・ミンスキーとシーモア・パパートは『パーセプトロン』を出版して単純なニューラルネットの限界を示し、アラン・カルメラウアーはプログラミング言語 Prolog を開発した。テッド・ショートリッフェは医学的診断と療法におけるルールベースシステムを構築し、知識表現と推論のパワーを示した。これは、最初のエキスパートシステムと呼ばれることもある。ハンス・モラベックは、障害物があるコースを自律的に走行する最初のコンピューター制御の乗り物を開発した。 1980年代に、ニューラルネットワークはバックプロパゲーションアルゴリズムによって広く使われるようになった。 また、この時代にロドニー・ブルックスが、知能には身体が必須との学説(身体性)を提唱した。 1990年代はAIの多くの分野で様々なアプリケーションが成果を上げた。特に、ボードゲームでは目覚ましく、1992年にIBMは世界チャンピオンに匹敵するバックギャモン専用コンピュータ・TDギャモンを開発し、IBMのチェス専用コンピュータ・ディープ・ブルーは、1997年5月にガルリ・カスパロフを打ち負かし、同年8月にはオセロで日本電気のオセロ専用コンピュータ・ロジステロに世界チャンピオンの村上健が敗れた。国防高等研究計画局は、最初の湾岸戦争においてユニットをスケジューリングするのにAIを使い、これによって省かれたコストが1950年代以来のAI研究への政府の投資全額を上回ったことを明らかにした。日本では甘利俊一(日本学士院会員)らが精力的に啓蒙し、優秀な成果も発生したが、論理のブラックボックス性が指摘された。 1998年には非構造化データ形式の国際規格であるXMLが提唱されたが、ここからWeb上の非構造化データに対して、アプリケーション別に適した意味付けを適用し、処理を行わせる試みが開始された。同年に、W3Cのティム・バーナーズ=リーにより、Webに知的処理を行わせるセマンティック・ウェブが提唱された。この技術はWeb上のデータに意味を付加して、コンピュータに知的処理を行わせる方法を国際的に規格化するものである。この規格には知識工学におけるオントロジーを表現するデータ形式のOWLも含まれていることから、かつて流行したエキスパートシステムの亜種であることが分かる。2000年代前半に規格化が完了しているが、Web開発者にとっては開発工数に見合うだけのメリットが見出せなかったことから、現在も普及はしていない。
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