1900年代:ルーズベルトとタフト
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「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1900年代:ルーズベルトとタフト」の解説
1901年、再選されたマッキンリーの暗殺後に大統領職を引き継いだセオドア・ルーズベルトはこの時代を代表する人物となった。T・ルーズベルトは独占禁止法を制定する等、マッキンリーの企業優遇策を部分的に改め、党内保守派から批判を受けた。1904年の大統領選挙では、共和党候補の座をめぐって、マッキンリー政権の黒幕マーク・ハンナ上院議員がルーズベルトに挑んだが、2月にハンナが病死し、ルーズベルトがマッキンリーの政策を継承すると誓約したこともあり、共和党候補の座を手に入れ、たやすく勝利を収めた。しかし、保守的なジョセフ・ガーニー・キャノン(英語版)下院議長にはハンナ以上に手を焼いた。ルーズベルトの立法面での業績は限られたもので、わずかに鉄道規制(ヘップバーン法(英語版))や純食品・薬品法(英語版)の成立を成し遂げた程度であった。司法面での成果はもう少し充実しており、反トラスト訴訟を起こし、ノーザン・セキュリティーズとスタンダード・オイルのトラスト解体に成功した。ルーズベルトは任期の最後の2年間で左傾化し、「公正取引政策(英語版)」を提案したが、目玉政策を通過させることはできなかった。ルーズベルトが最後に成功したのは後継者の指名で、ウィリアム・ハワード・タフト陸軍長官を後任に指名し、タフトは1908年アメリカ合衆国大統領選挙で再びブライアンを容易に破った。 共和党を分裂させたのは、またも関税の問題だった。タフトは就任早々、T・ルーズベルトが先送りした関税問題に正面から向かわざるを得なかった。ネルソン・W・オルドリッチ率いる東部の守旧派は工業製品(特に毛織物)に対する高い関税を要求していたが、中西部は低い関税を求めた。オルドリッチは策を弄し、ペイン・オルドリッチ関税法(英語版)を通過させたが、農産物の関税を下げたため、農家を憤慨させた。ジョージ・ノリス(英語版)の先導で立ち上がった中西部の人々はキャノン議長率いる守旧派に対して反旗を翻した。保守派と反対派の対立に助けられ、1910年アメリカ合衆国下院選挙(英語版)では民主党が勝利し、下院を支配下に置いた。 1912年の大統領選挙では、ルーズベルトがタフトと決裂し、三選を目指したが、タフトの方が上手で、指名を獲得した。ルーズベルトは側近を連れて党大会を退席し、新政党「進歩党」(別名ブル・ムース党)を結成して本選挙に出馬した。党幹部でルーズベルトと行動を共にしたのは、カリフォルニア州のハイラム・ジョンソン上院議員等、わずかだった。この分裂により、民主党のウッドロウ・ウィルソンは選挙で圧倒的な勝利をおさめ、共和党優位の時代は一時的に中断した。 ウィルソンは企業を保護していた高率関税を引き下げ、より強化された反トラスト法(クレイトン法)や、鉄道労働者の賃金引き上げ等を実施した。欧州で勃発した第一次世界大戦に対して、政権第一期では中立を保ち、中立継続を掲げて再選を果たしたが、第二期中の1917年に遂に参戦し、多くの兵と戦費を注ぎ込んだ。戦後のアメリカでは孤立主義への回帰を求める世論が強く、ウィルソンも起草に関わった国際連盟設立を含むヴェルサイユ条約の批准は議会で否決された。国内ではストライキや暴動が荒れ狂い、1920年の大統領選挙・議会選挙は共和党の圧勝に終わった。更に追い風となったのは1919年に成立した禁酒法である。この年、ボルステッド法とアメリカ合衆国憲法修正第18条が成立し、飲用アルコールの製造販売が連邦規模で禁止された。このことはドイツ系やアイルランド系等、一部の民主党議員の離反を生み、1920年以降の共和党の大勝に寄与した。
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