関税問題とは? わかりやすく解説

関税問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 13:46 UTC 版)

帝国クライス」の記事における「関税問題」の解説

1564年プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガングは、自領を通過しニュルンベルクアウクスブルクを結ぶ通商路の関税を突然3倍に引き上げた。この関税引き上げ1566年には皇帝認可得ていた。これにより、この流通路の経済圏は、流通滞り深刻な経済的打撃受けた基本的に貴族兵士農民からなる諸侯領に較べ商工業中心とする帝国都市で、その打撃大きなものであったとはいえ帝国都市単独では有力諸侯プファルツ=ノイブルク公には対抗し得えなかった。そこで、この関税引き上げラント和を乱すものであり、帝国クライス担当問題であるとし、帝国クライス諮ることとした。 初め諸侯はこれをラント平和の妨害行為であるとすることに難色示したが、帝国都市の熱心で粘り強い説得により、これをクライス問題として採り上げるに至った。しかし、帝国クライスは、独自の裁判権持たず帝国等族領内内政干渉することはできなかったため、通商沿線帝国クライス、すなわち、ニュルンベルク属すフランケン・クライスアウクスブルク属すシュヴァーベン・クライスプファルツ=ノイブルク公属すバイエルン・クライスは、1566年4月共同で、この関税引き上げ不当であると皇帝および選帝侯訴え出た。これにより、帝国クライスは、治安維持範囲超え政治的にラント平和維持関わることとなった。 3クライス1567年2月以降頻繁に合同クライス会議重ね皇帝選帝侯粘り強く交渉続けたその結果1571年4月皇帝からプファルツ=ノイブルク公新関に関する文書作成過ちがあった旨の文書シュヴァーベン・クライス宛)を引き出し1576年レーゲンスブルク帝国議会において不当な関税特権乱用対す警告が発せられた。こうして、クライス会議徐々に帝国行政関与していくようになった

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関税問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:35 UTC 版)

ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「関税問題」の解説

1902年7月11日ソールズベリー侯爵首相退任、その甥であるアーサー・バルフォア首相に就任し、バルフォア内閣英語版)が発足したこの頃チェンバレン交通事故にあって療養中だったため、後継首相になることができなかった。ソールズベリー侯爵が甥に後を継がせるためこの時期選んで辞職したとする説もあるが定かではない。ただチェンバレン名誉に関心はなく実権だけを求め性格なので、自分意見重んじるであれば年下バルフォアのもとで働くこともやぶさかではなかった。彼はバルフォア内閣でも植民地大臣留任することとなった予想外に長引いたボーア戦争には2億2300ポンドもの戦費がつぎ込まれており、1900年以降イギリス財政赤字になっていた。 こうした中、チェンバレン外国商品食料含む)に対して報復関税をかけつつ、帝国特恵関税制度英語版)を導入して大英帝国内の関税安くする事を主張するようになった大英帝国結び付き強化して自給自足経済圏の建設目指すとともに関税収入をもって均衡財政社会保障費確保図ろうという意図であり、小英国主義とは真っ向から対立する発想だった。 しかしこの計画自由貿易派の蔵相チャールズ・リッチー(英語版)から強い抵抗受けたチェンバレン1902年から1903年3月にかけて南アフリカ訪問してロンドン不在にしていたことが災いしリッチー強硬な反対は他の閣僚に伝播した。 リッチーが反保護貿易主義的な予算案提出したことに反発してチェンバレン1903年5月15日バーミンガム行った演説帝国特恵関税制度提案した。その演説で彼は「私は大英帝国信じている。その最高の任務一つ全世界国々友好育むことだが、もし孤立して自給自足でき、いかなる相手とも競争できる、そんな大英帝国を私は望む。」と語った。 この演説以降、関税問題は政界世論二分する大論争となった貧し庶民パン値段上がることに反対し、保護貿易には反対だった金融資本家も資本流動性悪くなるとして保護貿易には反対だった対して工業資本家廉価なドイツ工業製品恐れていた)や地主伝統的に保護貿易主義)は保護貿易歓迎しチェンバレン支持した。ただ現実問題として大不況期は過ぎ去っており、再び貿易額増加しはじめていた時期であったから、自由貿易捨てるのは時期尚早に思われた。 閣内ではリッチーの他、枢密院議長デヴォンシャー公爵ハーティントン侯爵1891年デヴォンシャー公爵位を継承)やインド担当相ジョージ・ハミルトン卿などがチェンバレン反対した。若き新米議員ウィンストン・チャーチル自由貿易奉じてチェンバレン反対している。 自由帝国主義派と小英国主義派に分裂していた自由党自由貿易支持・反チェンバレンの旗のもとに一致団結して固まった孤立したチェンバレンは、保護貿易世論喚起することを狙うようになり、内閣発言拘束されぬため、1903年9月21日植民地大臣辞した

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