関税問題
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1564年、プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガングは、自領を通過しニュルンベルクとアウクスブルクを結ぶ通商路の関税を突然3倍に引き上げた。この関税引き上げは1566年には皇帝の認可も得ていた。これにより、この流通路の経済圏は、流通が滞り、深刻な経済的打撃を受けた。基本的に貴族と兵士と農民からなる諸侯領に較べ、商工業を中心とする帝国都市で、その打撃は大きなものであった。とはいえ、帝国都市単独では有力諸侯のプファルツ=ノイブルク公には対抗し得えなかった。そこで、この関税引き上げがラント平和を乱すものであり、帝国クライスの担当問題であるとし、帝国クライスに諮ることとした。 初め諸侯はこれをラント平和の妨害行為であるとすることに難色を示したが、帝国都市の熱心で粘り強い説得により、これをクライスの問題として採り上げるに至った。しかし、帝国クライスは、独自の裁判権を持たず、帝国等族領内の内政に干渉することはできなかったため、通商路沿線の帝国クライス、すなわち、ニュルンベルクが属すフランケン・クライス、アウクスブルクが属すシュヴァーベン・クライス、プファルツ=ノイブルク公が属すバイエルン・クライスは、1566年4月に共同で、この関税引き上げが不当であると皇帝および選帝侯に訴え出た。これにより、帝国クライスは、治安維持の範囲を超え、政治的にラント平和維持に関わることとなった。 3クライスは1567年2月以降、頻繁に合同クライス会議を重ね、皇帝・選帝侯と粘り強く交渉を続けた。その結果、1571年4月に皇帝からプファルツ=ノイブルク公の新関税に関する文書作成に過ちがあった旨の文書(シュヴァーベン・クライス宛)を引き出し、1576年のレーゲンスブルク帝国議会において不当な関税特権の乱用に対する警告が発せられた。こうして、クライス会議は徐々に帝国行政に関与していくようになった。
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関税問題
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「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「関税問題」の解説
1902年7月11日にソールズベリー侯爵が首相を退任、その甥であるアーサー・バルフォアが首相に就任し、バルフォア内閣(英語版)が発足した。この頃チェンバレンは交通事故にあって療養中だったため、後継の首相になることができなかった。ソールズベリー侯爵が甥に後を継がせるためこの時期を選んで辞職したとする説もあるが定かではない。ただチェンバレンは名誉に関心はなく実権だけを求める性格なので、自分の意見を重んじるのであれば、年下のバルフォアのもとで働くこともやぶさかではなかった。彼はバルフォア内閣でも植民地大臣に留任することとなった。 予想外に長引いたボーア戦争には2億2300万ポンドもの戦費がつぎ込まれており、1900年以降、イギリス財政は赤字になっていた。 こうした中、チェンバレンは外国商品(食料含む)に対して報復関税をかけつつ、帝国特恵関税制度(英語版)を導入して大英帝国内の関税は安くする事を主張するようになった。大英帝国の結び付きを強化して自給自足経済圏の建設を目指すとともに、関税収入をもって均衡財政と社会保障費の確保を図ろうという意図であり、小英国主義とは真っ向から対立する発想だった。 しかしこの計画は自由貿易派の蔵相チャールズ・リッチー(英語版)から強い抵抗を受けた。チェンバレンが1902年から1903年3月にかけて南アフリカを訪問してロンドンを不在にしていたことが災いし、リッチーの強硬な反対は他の閣僚にも伝播した。 リッチーが反保護貿易主義的な予算案を提出したことに反発して、チェンバレンは1903年5月15日にバーミンガムで行った演説で帝国内特恵関税制度を提案した。その演説で彼は「私は大英帝国を信じている。その最高の任務の一つは全世界の国々と友好を育むことだが、もし孤立しても自給自足でき、いかなる相手とも競争できる、そんな大英帝国を私は望む。」と語った。 この演説以降、関税問題は政界と世論を二分する大論争となった。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対だった。対して工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した。ただ現実問題として大不況期は過ぎ去っており、再び貿易額が増加しはじめていた時期であったから、自由貿易を捨てるのは時期尚早に思われた。 閣内ではリッチーの他、枢密院議長デヴォンシャー公爵(ハーティントン侯爵、1891年にデヴォンシャー公爵位を継承)やインド担当相ジョージ・ハミルトン卿などがチェンバレンに反対した。若き新米議員ウィンストン・チャーチルも自由貿易を奉じてチェンバレンに反対している。 自由帝国主義派と小英国主義派に分裂していた自由党も自由貿易支持・反チェンバレンの旗のもとに一致団結して固まった。 孤立したチェンバレンは、保護貿易の世論を喚起することを狙うようになり、内閣に発言を拘束されぬため、1903年9月21日に植民地大臣を辞した。
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