1906年総選挙に惨敗
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「アーサー・バルフォア」の記事における「1906年総選挙に惨敗」の解説
首相退任後もバルフォアは5年にわたって保守党党首職に在任した。バルフォアに代わって組閣の大命を受けた自由党党首キャンベル=バナマンは、少数与党の状況を脱するべく、1906年1月にも解散総選挙に打って出た。 この選挙の争点は保守党に有利なアイルランド問題ではなく、自由党に有利な関税問題や中国人奴隷問題となった。関税問題では自由党は庶民に受けのいい「無関税の食糧を!」をスローガンに掲げることができたが、保守党は関税問題で分裂したままだった。中国人奴隷問題でも自由党は中国人苦力が鞭で打たれているポスター、あるいは中国人苦力の絵に「トーリー(保守党)の新しい労働者」という文字を付けたポスターをばら撒いて、英国民の間に人道上の義憤とも外国人労働者輸入への不安ともつかぬ憤慨を引き起こし、英国各地で「豚のしっぽ(弁髪)」という言葉が叫ばれた。グレーアム・ウォーラスは「気味の悪い黄色い顔がモンゴル系人種に対する直接的な嫌悪感を呼び覚まし、この嫌悪感が保守党に向けられた」と分析している。 こうして保守党は庶民・労働者層の反発を買って苦しい選挙戦を強いられた。結局自由党が377議席に大躍進する一方、改選前に401議席を持っていた保守党は、157議席に激減した。党首バルフォア自身もこれまでのマンチェスター・イースト選挙区(英語版)では落選するという屈辱を喫し、シティ・オブ・ロンドン選挙区(英語版)に転じて再選を果たしている。 この惨敗は保守党の歴史にかつてないものだった(これまでの保守党の最低記録は1832年総選挙(英語版)の際の185議席)。しかも当選した157人のうち、109人の議員は関税改革論者だったため、保守党は惨敗に懲りずに保護貿易主義に傾いていくことになった。バルフォアもそれまでの折衷主義を弱めて関税改革路線に傾いていった。
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