1906年以降 - キュビスム
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「サロン・ドートンヌ」の記事における「1906年以降 - キュビスム」の解説
1906年以降、各回において大規模な回顧展(1906年のクールベ展、1907年のセザンヌ展、ベルト・モリゾ展、ジャン=バティスト・カルポー展 など)や、その年または前年に死去した芸術家の回顧展(1906年のウジェーヌ・カリエール展、1907年のセザンヌ展 など)が行われた。とりわけ、1906年のゴーギャン展は、油彩、水彩、パステル、素描、版画、陶磁器など計227点を展示する大規模なものであった。 同じく1906年からポスター・版画の展示室が設けられ、同年にはアンリ・ベレリ=デフォンテーヌ、シャルル=フランソワ=プロスペール・ゲラン、ルイ=アベル・トリュシェ(フランス語版)らの作品が展示され、前年から音楽会も開催されるようになった。初回はドビュッシー、フォーレ、ラヴェル、セザール・フランク、ポール・デュカス、ヴァンサン・ダンディ、アルベリク・マニャールなどの四重奏、五重奏、ピアソナタ、ヴァイオリンソナタの室内楽のコンサートが行われた。 キュビスムの画家ジャン・メッツァンジェは1907年からサロン・ドートンヌに出品していたが、ピカソが《アビニョンの娘たち》を発表した同年から、これに衝撃を受けたジョルジュ・ブラックが《大きな裸婦》、《レスタックの陸橋》などを制作。1908年のアンデパンダン展に出品したが、サロン・ドートンヌでは落選となった。サロン・ドートンヌでキュビスムの作品が大々的に紹介されたのは、1911年の第8回展においてであった。このときはピカソとジョルジュ・ブラックの裸婦、フェルナン・レジェの《森の裸体》、メッツァンジェの《おやつの時間》、ロベール・ドローネー《エッフェル塔》などが展示され、さらに翌1912年にはアルベール・グレーズの《シャルトル大聖堂》が展示された。 サロン・ドートンヌ展は1914年から1918年までの第一次大戦中には開催されなかったが、戦間期のエコール・ド・パリ、ダダイスム、シュルレアリスム、第二次大戦後の抽象芸術、とりわけ、60年代のヌーヴェル・フィギュラシオン(フランス語版)(新具象派)、アウトサイダー・アートの流れを汲む70年代のアール・サンギュリエ(フランス語版)など新しい芸術表現が次々と紹介された。
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