関税改革を支持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:54 UTC 版)
「ヘンリー・チャップリン (初代チャップリン子爵)」の記事における「関税改革を支持」の解説
1899年にボーア戦争が始まったが、この戦争は予想に反して長引き、巨額の戦費を要したことからイギリスは財政赤字へと突き進んだ。この財政危機を巡って、関税による穴埋めをはかる保護貿易派と、従来の貿易体制を維持する自由貿易派とに政界は分裂して、その対立は政治問題化した。保護貿易派の領袖ジョゼフ・チェンバレンは関税改革の構想を打ち出した。チャップリンもこの改革を支持して関税委員会のメンバーに加わったほか、自由貿易に反対する急先鋒として活動した。こうした主張の前段には、彼が農業恐慌で大打撃を受けた小麦栽培の産地で生まれ育ち、かねてから再三保護主義を解決策として挙げていた点がある。しかしチャップリンの考えとは裏腹に、地主層はイギリス農業に対する改革の有効性に疑問を感じ、労働者層は雇用の安定よりも「安価なパン」を求めていた。そのためチェンバレンは打って出た1906年総選挙に敗北、関税改革は頓挫した。関税改革を支持したチャップリンもこの余波をこうむり、総選挙に落選する結果となった。 ただし早くも翌年にはウィンブルドン選挙区(英語版)で行われた補欠選挙(英語版)に出馬して、若き哲学者バートランド・ラッセルを破って当選している。以降も関税改革の旗振り役を務めたが、自党党首ボナー・ローが1912年にアイルランド自治問題に取り組むため関税問題を切り捨てると、チャップリンは落胆したという。
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