アイルランド自治問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/27 07:59 UTC 版)
「イギリスにおける権限委譲」の記事における「アイルランド自治問題」の解説
現在の権限委譲とは異なるが、アイルランド自治問題(英語版)はその前史のようなものにあたる。 19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス政治においてアイルランド自治問題は極めて大きな問題となっていた。19世紀前半には、ダニエル・オコンネルらアイルランドの政治家たちが、1800年連合法の廃止および従前の人的同君連合(別々の王国が各々の議会や政府を持ちつつ同一人物を君主として戴く状態・体制)への復帰を求めていた。これに対し、イギリスの中にとどまりつつも独自の議会をもって自治権を得ようとする動きもあり、チャールズ・スチュアート・パーネル、アイザック・バット(英語版)、ウィリアム・ショー(英語版)ら率いるアイルランド議会党(英語版)によって最初の提案が行われた。 1886年から1920年まで34年の年月の間、合計4つのアイルランド自治法案がイギリス議会に提出されている。 1つ目の1886年アイルランド統治法案(英語版)は1886年に当時の首相ウィリアム・グラッドストンによって提出されたものである。アルスター地方での大規模な反対運動や与党自由党からの反対派の分裂(自由統一党を結成)ののちに庶民院にて否決された。 2つ目の1893年アイルランド統治法案(英語版)は1893年にグラッドストン首相によって提出され、庶民院は通過したものの貴族院において否決された。 3つ目の1914年アイルランド統治法(英語版)は1912年にアイルランド議会党との合意のもの、当時のハーバート・ヘンリー・アスキス首相によって提出された。長期にわたる議論ののち、1911年議会法(英語版)で定められた庶民院による再可決(貴族院による否決を覆す)によって成立した。以前の法案と同様この法案もアルスター統一党による激しい反対にあっており、アルスター義勇兵(英語版)の結成やアルスター盟約(英語版)への署名運動などが行われている。第一次世界大戦開戦直後にアルスター関連の制約付きで国王の裁可を受けたが、施行は終戦まで延期されることになった。1916年と1917年に施行の試みが行われたがそれぞれ失敗し、終戦後もアイルランド独立戦争(1919年~1922年)のため結局施行されることはなかった。 4つ目の1920年アイルランド統治法は1920年にデイヴィッド・ロイド・ジョージ首相によって提出され、庶民院、貴族院双方で可決された。この法律はアイルランドを北アイルランド(6カウンティ)と南アイルランド(26カウンティ)の2つに分割し、共通の機関もありつつもそれぞれ独立した議会と司法システムを持つようにした。この法律は北アイルランドにおいては施行後、1972年に北アイルランド問題の発生によって権限委譲が停止されるまで自治の基本となっていた。これに対し、南アイルランドにおいてはアイルランド独立戦争の休戦協定である英愛条約の下、1922年に一度議会が開かれただけにとどまっており、この後すぐにイギリス帝国の自治領たるアイルランド自由国が建国され、1937年には完全な独立を宣言、1949年にはイギリス連邦からも離脱して現在のアイルランド共和国となっている。
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