アイルランド自治運動の指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 00:57 UTC 版)
「チャールズ・スチュワート・パーネル」の記事における「アイルランド自治運動の指導者」の解説
パーネルの行った下院の演説は聞くに堪えないものであったと言われている。しかし彼は、優れたまとめ役としての才能を発揮することになる。1880年にはアイザック・バットとウィリアム・ショウに代わり、アイルランド国民党の党主に選出された。 パーネルの指導の下、1882年に国民党はアイルランド議会党へと再組織化された。これはアイルランドのみならず、イギリス政治においても初の近代的政治組織であった。議員候補者の選出が組織化され、議会での投票に際してはそれまで重視された個人の判断に関係なく、ウィップと呼ばれる呼集役により党の方針に見合う決定がなされるようになった。パーネルはアイルランド選出議員をまとめあげ、自由党および保守党政府に対してアイルランドの自治拡大を要求した。パーネルの活動により、1886年には自由党のグラッドストン首相により第1回アイルランド自治法が提案された。しかし自由党内部の対立により、下院での成立はかなわなかった。 パーネルはアイルランド自治獲得とともに、土地改革も重要視していた。この改革を訴える上で、党内の過激派はアイルランド土地連盟を結成し、逮捕者が出るほど主張を繰り返し訴えた。メンバーにはジョン・ディロン、ティム・ヒーリー、ウィリアム・オブライエンなどがいる。連盟の活動により国土法(Land Act)が成立し、それまでのプロテスタント地主による大地主制に代わり、カトリックの小作農に土地が与えられることになった。
※この「アイルランド自治運動の指導者」の解説は、「チャールズ・スチュワート・パーネル」の解説の一部です。
「アイルランド自治運動の指導者」を含む「チャールズ・スチュワート・パーネル」の記事については、「チャールズ・スチュワート・パーネル」の概要を参照ください。
- アイルランド自治運動の指導者のページへのリンク