保守党政権期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「保守党政権期」の解説
即位時の政権は第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とする保守党政権だった。1902年3月には同内閣第一大蔵卿アーサー・バルフォアによって「バルフォア教育法」と呼ばれる教育法(英語版)が制定され、中等教育制度の確立が目指された。 1902年7月にソールズベリー侯爵が病で退任した。ジョゼフ・チェンバレンが入院中だったこともあり、エドワードは一般に次期首相と目されていたバルフォアに組閣の大命を下したが、エドワードはバルフォアに好感を持っていなかったという。 1903年にはバルフォア内閣アイルランド担当大臣ジョージ・ウィンダムの主導で新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定され、アイルランド小作人の土地購入が推進された。 しかし南アフリカの中国人奴隷問題をめぐって保守党は批判を集めた。 またこの時期の保守党政権は関税問題に揺れた。1902年3月にボーア戦争が終結したが、予想外の長期戦で膨大な戦費がかかったため、蔵相マイケル・ヒックス・ビーチの主導で1902年6月に穀物関税が限定的に導入された。しかし穀物関税は「パン価格を高騰させ、貧民を苦しめる」と批判されていたため、野党自由党が強く反発し、保守党政権内にも慎重論が根強かった。 バルフォア内閣成立後にはチェンバレンを中心とした関税改革派(保護貿易派)と蔵相チャールズ・リッチー(英語版)を中心とした自由貿易派に分裂するようになった。首相バルフォアは折衷的立場をとっていたが、最終的には党分裂を避けるために1905年12月に総辞職した。
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