2000年代前半とは? わかりやすく解説

2000年代前半(流通史)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 22:36 UTC 版)

自作パソコン」の記事における「2000年代前半(流通史)」の解説

21世紀に入るとインターネットバブル崩壊したアニメーションマニア全国11万人市場規模200億円(2004年)、コミック35万人830億円、ゲーム16万人210億円に対して組立PC19万人360億円で少数派転落した。しかし自作パソコン売り上げ伸びていた。たとえば秋葉原には2002年当時、約170パソコン店があり、そのうち約7割が自作パソコン取り扱っていて、秋葉原での市場規模12001800億円だったという説がある。秋葉原自体集客伸ばしており、自作パソコン市場新規顧客集めていたがマニアより一般人初心者増え低価格注目があつまるようになった他方では、2005年つくばエクスプレス開業再開発計画進捗要因となり家賃高騰し薄利多売価格競争経営疲弊させ耐え切れなくなった自作パソコン店が相次いで閉店さらには経営破綻追い込まれた。大阪でも他社との価格競争激化出店戦略失敗から、地元資本スタンバイ2001年日本橋残った最後店舗閉鎖し自主廃業した。 地方都市でもPC DEPOTパソコン工房出店続いたが、T-ZONE当時親会社創業者の死去などの影響重なり経営迷走し、やがて長い凋落に陥ってゆく。またweb通販急激に台頭充実しそれまで店頭小売行なっていたパソコンショップでも通信販売主体専業切り替えるケースや、パソコンパーツ販売以外に業態転換するケース相次いだ。 この時期ソニーのような国内メーカーパソコンが低迷してゆく一方でホワイトボックス組み立て直販メーカー大規模化産業化が進む。デルシェア一時的に急伸しBTOホワイトボックスパソコン急激に伸長したパソコン専門店BTO好調だったが、2004年それまで様々なホワイトボックスパソコンメーカーの製品扱ってきたヤマダ電機フロンティア神代子会社化この方面を一本化した。この家電量販店業界最大手本格参入という事態により、既存専門店はその専門性度合い問われた。量販店大規模化し、ソフマップ2003年度38店舗秋葉原17店舗)やT-ZONE本店」(3775平方メートル)やラオックス「ザ・コンピュータ館」(2725平方メートル)と比べても数倍の販売規模となるヤマダ電機2003年度直営193店舗)やヨドバシAkiba(33000平方メートル)が参入してきた。Amazon電気製品ネット通販参入したのもこの頃であり、ネット上の競争激化したMCJマウスコンピューター)は2003年家電量販店パソコンショップチェーンなどへのOEM供給本格的に開始する一気規模拡大させ、2004年6月には東証マザーズ上場果たしたこの様な、マイクロソフトインテル、その他パーツメーカーと上位パートナーシップを結びOEMソフトウェア各種パーツ大幅な格安価格大量一括調達することが可能となるなど、規模の経済効果をより大きく享受できる大規模な国内組立業者出現した中小零細企業個人商店どころかパソコンショップチェーン店舗単位パーツ組み立て規模独自商品、またユーザーにとっての自作パソコンは、相対的に割高に付くようになったまた、『ファイナルファンタジーXI』大航海時代』『リネージュII』などといった本格的な3Dオンラインゲーム登場し、パソコンメーカー・パーツメーカー各社オンラインゲーム運営会社タイアップして、安定動作快適なゲームプレイ保証する推奨パソコン」「推奨グラフィックボード」の販売始めた。元々、黎明期オンラインゲームでは快適なプレイにはハイエンド構成パソコンが必要で、その頃プレイヤーには自作傾向が根強かったが、運営会社にとってはプレイヤー拡大のためには自作パソコン以外でも対応するハイエンドPC幅広く普及させる必要があったためである。 パソコンパーツの販社からは「玄人志向」(CFD販売)や「挑戦者」(アイ・オー・データ機器)などといった、ユーザーサポート日本向けローカライズ最小限度切り詰めた低価格自作パーツブランドが登場した

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2000年代前半(2000年 - 2004年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:43 UTC 版)

ハンファ・イーグルス」の記事における「2000年代前半(2000年 - 2004年)」の解説

1999年の韓国シリーズ制覇は、煕洙監督能力よるものというよりはすべてがよい方向進んだ結果というのが大方の見方だった。結局優勝動力だった先発3本の方は、鄭珉哲1999年シーズンオフ日本読売ジャイアンツ移籍相睦は故障リタイアして、宋津宇一人だけ先発ローテーションを守るなか、外国人デイビスとローマイヤーも怠慢な態度見せ始め前年優勝した勢いは完全に消滅チームは7位に逆戻り結局、もともと多く期待されなかった煕洙監督2000年限り退団した2000年シーズンオフ自律野球標榜し投手分業制システムLG優勝導いた李廣煥(イ・グァンファン)監督招いた李廣監督赴任初年度チーム準プレイオフに導くも公式戦では勝率5割を切り負け越した斗山との準プレイオフでも敗退2002年は6位、監督球団OB承安(ユ・スンアン)に変わった2003年は5位、2004年は7位と成績低迷した

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